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'''渋川 光洪'''(しぶかわ みつひろ、[[享保]]8年([[1723年]]) - [[明和]]8年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]([[1771年]][[3月15日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[江戸幕府]][[天文方]]。[[渋川敬尹]]の三男。兄は[[渋川則休]]。通称孫次郎・図書。
 
兄の急逝に伴い、[[寛延]]3年([[1750年]])に天文方の地位を継ぐ。翌年、兄が命じられていた[[改暦]]実現のために、[[西川正休]]とともに[[上洛]]するが、翌年に[[陰陽頭]][[土御門泰邦]]の策動によって西川は失脚、取り残された光洪は泰邦の威圧に屈し、泰邦主導で作られた[[宝暦暦]]には泰邦の隣に「門人渋川図書天文生源光洪」という位署をすることとなった(「天文生」は[[土御門家 (安倍氏)|土御門家]]が代々掌ってきた[[天文道]]の学生という意味)。子供が無く、天文学とは無縁な家から[[渋川正清]](光洪の甥にあたる)が後継者に迎えられた
 
== 参考文献 ==