「徴兵令」の版間の差分

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国民皆兵を理念とはしたが、体格が基準に達しない者<ref>身長の基準は5尺1寸(約154.5cm)以上であった。</ref>や病気の者などは除かれ、また制度の当初、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「嗣子並に承祖の孫」(承継者)、「代人料(270円)を支払った者」<ref>270円は当時の常備役歩兵1人の年間維持費(90円)の3年分に当たる額である。なお、この代人料制度は1883年に廃止。</ref>、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」は徴兵免除とされた。このため、徴兵逃れに養子になる等の徴兵忌避者が続出し、徴兵免除の解説書まで出版されたりもした<ref>[http://www4.ocn.ne.jp/~aninoji/meneki.html 史料紹介『徴兵免役心得』]</ref>。この結果、二十歳以上の男子の3%~4%くらいしか徴兵できなかった(もともと政府の財政難により、成人男子全員を徴兵することは到底無理ではあった)。
 
さらに各地で徴兵令反対の一揆が起こった。徴兵告諭に「血税」という言葉があったためとされ、「[[血税一揆]]」と呼ばれた。この[[一揆]]、特に[[岡山県]]で激しかった。「血税」とは、[[フランス語]]の「impôt du sang」の直[[翻訳|訳]]であり、「impôt」が「税」、「sang」が「血」の意である。この名のせいで、本当に血を抜かれると誤解した者も多かった
:「徴兵告諭」の一節:「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報するの謂なり」
 
また当時「徴兵、[[懲役]]、一字の違い、腰に[[サーベル]]鉄鎖」という句が流行った。[[強制]]に基づく徴兵は監獄に行くのと同じであり嫌だ、という反抗の表れとされる。
 
当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、[[軍人勅諭]]や[[教育勅語]]による国防思想の普及、[[日清戦争]]・[[日露戦争]]の勝利、さらには軍隊で支給される食事が当時の生活レベルから見れば良質だったという俗どを経て理由もあり、組織的な抵抗はなくなったものの、。しかし徴兵忌避の感情は自然の感情であるので、さまざまな徴兵忌避対策が庶民レベルで繰り広げられた。創設当初にあった[[徴兵免除]]の規定も徐々に縮小・廃止され、{{和暦| 1889}}に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。
 
なお徴兵令の適用年代には地域差がある。本土では{{和暦|1873}}だが、[[小笠原]]・[[北海道]]では{{和暦|1887}}、[[沖縄本島]]では{{和暦|1898}}、[[先島諸島]]では{{和暦|1902}}になるまで徴兵はなかった(例えば沖縄出身で[[日清戦争]]に従軍した者は全て志願である)。このため,例えば[[鈴木梅太郎]]のように[[徴兵逃れ]]のために本土から沖縄へ[[転籍]]する者もいた。