「牧野忠寛」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''牧野 忠寛'''(まきの ただひろ)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第8代藩主。長岡藩系牧野家宗家9代。
 
{{武士/開始|牧野忠寛}}
{{武士/時代|[[江戸時代]]中期}}
10 ⟶ 8行目:
{{武士/藩|[[越後国]][[越後長岡藩|長岡藩]]主}}
{{武士/氏族|[[牧野氏]]}}
{{武士/父母|父:[[牧野貞通]]、母:佐藤氏<br />養父:''[[牧野忠利]]''}}
{{武士/兄弟|[[牧野忠敬]]、[[牧野貞長]]、[[牧野忠利]]、<br />'''牧野忠寛'''}}
{{武士/妻|正室:[[大岡忠光]]の娘・'''長君'''}}
{{武士/子|'''[[牧野忠精|忠精]]'''(長男)、[[有馬氏保]](次男)、<br />娘([[牧野忠知]]室)、娘([[堀川広福]]室)など2男3女}}
{{武士/終了}}
 
'''牧野 忠寛'''(まきの ただひろ)は、[[江戸時代]]の[[大名]]。[[越後長岡藩]]の第8代藩主。長岡藩系牧野家宗家9代。
 
== 経歴 ==
 
寛保元年(1741年)8月29日、[[常陸国]][[笠間藩]]主・牧野貞通の十男として生まれる。[[宝暦]]5年([[1755年]])、第7代藩主・忠利の死去により養子として後を継ぐ。このとき、[[末期養子の禁]]の関係もあってか幕府に15歳を20歳と偽っている。12月に従五位下、駿河守に叙任する。しかし藩政においては藩内の大火事や大洪水に悩まされたという。
 
明和3年(1766年)6月30日に父に先立って死去。享年26。後を長男・忠精が継いだ。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の[[済海寺]]。のち[[新潟県]][[長岡市]]の悠久山。
 
 
== 出自異説 ==
[[寛政重修諸家]]」及び「続藩翰譜」、牧野家公式記録「御家譜」では牧野貞通の子として記されているが、「御附録」では牧野忠敬が越後長岡藩主家養子になった2年後の寛保元年8(1741年)8月29日に[[牧野忠周]]と側室大原氏との長子として出生し東彦松と称し、[[寛延]]3年([[1750年]])に牧野貞通の猷子になったとある。これは「長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」での考察によれば、すでに嫡子扱いになっていた養子の忠周を押しのけて、幕府に嫡子届けが出ていない忠寛を嫡子に出来ないので、後年に越後長岡藩に迎えるための処置としている。
 
1982年の済海寺からの牧野家墓地改葬の際、牧野家当主一族の緊急遺骨調査の結果、骨格形状が笠間藩系の忠敬や忠利とは異なり、むしろ忠周と酷似しているために、人類学的には「御附録」が正しいとしている。なお、寛保元年出生説の方が人類学的には正しいとの見解が示されている。
 
1982年の済海寺からの牧野家墓地改葬の際、牧野家当主一族の緊急遺骨調査の結果、骨格形状が笠間藩系の忠敬や忠利とは異なり、むしろ忠周と酷似しているために、人類学的には「御附録」が正しいとしている。なお、寛保元年(1741年)出生説の方が人類学的には正しいとの見解が示されている。
 
== 参考文献 ==
34 ⟶ 31行目:
{{越後長岡藩主|牧野氏|8代|1755-1766}}
 
{{DEFAULTSORT:まきの たたひろ}}
[[Category:牧野氏|たたひろ]]
[[category:江戸の大名|まきのたたひろ]]
[[category:譜代大名|まきのたたひろ]]
[[Category:1741年生|まきのたたひろ]]
[[Category:1766年没|まきのたたひろ]]
 
[[en:Makino Tadahiro]]