「吉岡長増」の版間の差分

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永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮と共に出家、吉岡宗歓と名乗り、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。
 
永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、[[大友親貞]]を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また[[島津義久]]が[[相良義陽]]の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と[[島津貴久]]に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は[[薩摩]]に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。
 
天正元年([[1573年]])ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父[[大友義長]]の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて[[加判衆]]になったといわれ、[[大友義鑑]]は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、[[加判衆]]に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。