「レーモン・ド・ポワティエ」の版間の差分

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アンティオキア公国の摂政だった[[ボードゥアン2世 (エルサレム王)|ボードゥアン2世]]と[[フールク・ダンジュー]]に従い、レーモンは10歳の女公爵[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]と結婚した。公国を思いのままにしようとしていた、コンスタンスの生母アリックスから幼い女公爵を法的にも引き離すためで、公国にとって救いの主だった。アリックスには、美男のレーモンを彼女の夫にするように見せかけていたため、恥をかかされたと知った彼女は亡命した。
 
共同統治の最初の年から、[[ビザンティン東ローマ帝国]]皇帝[[ヨハネス2世コムネノス]]との衝突に悩まされた。[[キリキア・アルメニア王国]]を取り戻すという名目で軍を南下させ、アンティオキアを包囲したのである。レーモンは、皇帝に忠誠を誓わされ、領地を割譲させられた。替わりに、アンティオキア西部の[[イスラム]]領を得たら、レーモンへ分け与えるということになった。1138年、レーモンはヨハネス2世の遠征に加わることを強制された。
 
アンティオキア総司教を選挙で選ぶことは疑わしいと考えていたレーモンは、総司教にも忠誠を誓わされるにおよび、不快がつのった。結局、1139年に総司教は退位した。1142年に再びヨハネス2世に包囲されたが、この時のレーモンは以前の服従と違い、改心を拒んだ。帝国軍は、アンティオキア周辺を荒らし回り、誰も皇帝に対抗することができなかった。レーモンは、1143年に即位した[[マヌエル1世コムネノス]]からシリシアの都市を割譲するよう要求された。レーモンが好敵手であることを見抜いたマヌエル1世は、主従の誓いと、[[正教]]の[[大主教]]へ挨拶するよう命じ、[[コンスタンティノープル]]で恥をかかせようとした。