「ブルボン=パルマ家」の版間の差分

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'''ブルボン=パルマ家'''(Bourbon-Parma)は、[[ブルボン家]]のうち[[パルマ公国]]を統治した一門のことを指す。[[イタリア語]]名に基づいて'''ボルボーネ=パルマ家'''(Borbone-Parma)とも呼ぶ。
 
この一門は本家である[[フランスブルボン朝|フランス・ブルボン家]]を始め、[[スペイン]]・[[両シチリア王国]]の各ブルボン家、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]と複雑な婚姻関係を結んでいる。現在の[[ルクセンブルク大公]]家は男系ではブルボン=パルマ家の分家の一つに当たる。また、ブルボン=パルマ家の現当主は[[カルリスタ]]が推すところのスペイン王位継承者の最右翼の一人である。
 
== 歴史 ==
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[[1789年]]の[[フランス革命]]、それに伴う[[ナポレオン・ボナパルト]]の台頭により、[[イタリア]]は大きく変動する。パルマ公国はナポレオンによって征服されるが、ナポレオンはその埋め合わせとして、[[ハプスブルク家]]の分家が治めていた[[トスカーナ大公国]]に代わって[[1801年]]に[[エトルリア王国]]を築き、ブルボン=パルマ家の[[ルドヴィーコ1世・ディ・ボルボーネ|ルドヴィーコ]]を封じた。ルドヴィーコの息子[[カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ|カルロ・ルドヴィーコ]]の代に、エトルリア王国は[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の直轄領となった。ナポレオンが失脚した後もパルマはボルボーネ家に戻らず、[[ウィーン会議]]の結果、パルマはナポレオンの皇后であったオーストリア皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリーア・ルイーザ]]のものとなり、カルロには埋め合わせとして[[ルッカ公国]]が与えられた。
 
[[1847年]]にマリーア・ルイーザが死去すると、カルロはパルマ公位に復位した(ルッカ公国はハプスブルク家のトスカーナ大公国に吸収された)。イタリアが自由主義の嵐に吹き荒れた[[1848年]]にカルロは死去し、息子の[[カルロ3世 (パルマ公)|カルロ3世]]が公位に就いた。[[フランスブルボン朝|フランス・ブルボン朝]]最後の君主である[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の孫娘[[ルイーズ・ダルトワ]]と結婚したカルロ3世は徹底的に反動政治を行うが、それが原因で[[1854年]]に暗殺される。長男の[[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]が6歳で公位を継いだが、[[サヴォイア家]]を中心とする[[イタリア統一運動]](リソルジメント)が盛り上がる中、[[1860年]]の[[住民投票]]によってパルマの[[サルデーニャ王国]]への併合が決定し、ロベルトは12歳で君主の座を追われた。
 
公位を追われたロベルト1世であったが、娘の[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]は最後の[[オーストリア帝国|オーストリア皇帝]][[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]の皇后となっている。また、ツィタの弟[[フェリックス・ド・ブルボン=パルム|フェリーチェ(フェリックス)]]は[[第一次世界大戦]]後に[[ルクセンブルク大公]][[シャルロット (ルクセンブルク大公)|シャルロット]]と結婚し、その子孫が大公位を継いで現在に至っている。
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== 関連項目 ==
*[[ブルボン家]]
*[[フランスブルボン朝]]
*[[スペイン・ブルボン朝]]
*[[シチリア・ブルボン朝]]