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[[儒道]]を家業とし、家禄は130石。[[1644年]]([[正保]]元年)[[烏丸光広]]の次男[[勘解由小路資忠|資忠]]によって創立された。[[家紋]]は鶴の丸。家格は[[名家 (公家)|名家]]。
 
[[昭和時代|昭和]]の当主は資承、なお、資淳を[[養子]]に迎えるさい、資淳を一度[[武者小路実篤]]の[[養子縁組|養子]]にしてから勘解由小路家に迎え入れた。
 
[[明治維新]]後は[[子爵]]。
 
[[雲上明鑑]]に、「始祖は[[烏丸豊光|烏丸権中納言豊光]]六代[[正二位]][[大納言|権大納言]]光広の末男[[正三位]][[参議]]資忠なり」とある。[[門流 (公)|門流]]は[[近衛家|近衛殿]]。
 
平安京の小路名による。[[藤原北家]]白河家流では、[[藤原伊尹]]の子孫経尹-行尹と続き、行尹が勘解由小路を号したとある。同[[勧修寺流]]では、為房-為隆-光房(勘解由次官)と系図に記され、さらに子孫高清(勘解由小路)とある。また同[[日野家|日野氏流]]では、[[藤原資長|日野資長]]-[[藤原兼光|兼光]]-[[広橋頼資|頼資]](勘解由小路)とあり、頼資の子[[広橋経光|経光]]-[[広橋兼仲|兼仲]]と続く嫡流は後に[[広橋家|広橋]]と号した。また、同日野烏丸流では、烏丸光広-(勘解由小路)資忠と見える。[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]が合体した[[明徳]]の頃から半世紀の間に、文献に現れた[[勘解由小路義重]]、[[勘解由小路右兵衛督]]などは、それそれ[[斯波氏]]からの一族であった。
 
=== 藤原北家日野流の歴代当主 ===
*初代:[[勘解由小路資忠]](1632([[1632]] - [[1679年]]):[[正三位]][[参議]]
*第 2代:[[勘解由小路韶光]](1663([[1663]] - [[1729年]]):[[正二位]][[大納言|権大納言]]
*第 3代:[[勘解由小路光潔]](1698([[1698]] - [[1732年]]):[[従三位]][[非参議]] [[式部省|式部権大輔]]
*第 4代:[[勘解由小路音資]](1721([[1721]] - [[1739年]]):[[従五位上]][[侍従]] ([[公卿]]に昇らず)
*第 5代:[[勘解由小路資望]](1735([[1735]] - [[1759年]]):[[従四位上]][[弁官|左中弁]]([[公卿]]に昇らず)
*第 6代:[[勘解由小路近光]](1754([[1754]] - [[1782年]]):[[従四位上]][[京職|左京権大夫]]([[公卿]]に昇らず)
*第 7代:[[勘解由小路資善]](1778([[1778]] - [[1848年]]):[[正二位]][[大納言|権大納言]]
*第 8代:[[勘解由小路光宙]](1808([[1808]] - [[1862年]]):[[正三位]][[非参議]] [[中務省|中務権大輔]]
*第 9代:[[勘解由小路資生]](1826([[1826]] - [[1893年]]):[[正三位]]  [[子爵]] [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
*第10代:[[勘解由小路資承]](1860([[1860]] - [[1925年]]):[[子爵]] [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
*第11代:[[勘解由小路資淳]](1922([[1922]] - ):
 
==(賀茂氏系)勘解由小路家 ==