「全学共闘会議」の版間の差分

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このことは組織形態にとどまらず、大学教員と学生の関係に及ぶ。「日本のみならず世界的に生起した68年学園闘争の、それ以前の学生運動との相違は、学生が教員を糾弾するスタイルの登場」<ref name="kakumeitekina"></ref>であり、たとえば[[ミシェル・フーコー]]は、パリ5月革命勃発を前にパリ大学ナンテール校で、「これらの学生たちが教師たちとの関係を階級闘争の用語で語るのは奇妙だ」<ref>ミシェル・フーコー 「年譜」『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』 筑摩書房</ref>と驚愕したという。全共闘では、アカデミシャンが、大学の「監視/管理体制の上に立ってのみ「良心的」=「進歩的」たりうるという事態にまったく無自覚」<ref name="kakumeitekina"></ref>とされ、「学外で「民主的な」言辞を弄しながら、学内では学生の弾圧にまわる教員たちの欺瞞性が糾弾された」<ref name="kakumeitekina"></ref>。
 
戦後初頭に結成された学生自治会(クラス単位で委員を選挙する)の基本的理念は、学生の、将来社会に市民として参加するための学問を修めるのに役立たせるための、かつ規律=訓練を自主的に行うものの互助団体であり、同じく大学の構成員であり、戦後民主主義社会の「市民」の理念型ともいえる大学教員との相互交流も成り立っていた。事実「60年安保までは教員と学生は対国家権力において、一種の親和的同盟関係にあった」<ref name="kakumeitekina"></ref>という。「学生と教師はともに手を携えて進歩的・民主的な運動にのぞみえた」<ref name="kakumeitekina"></ref>。しかし68年においては[[丸山眞男|丸山真男]]は、東大全共闘の全学封鎖時の、研究室資料破壊に「ナチスもやらなかった蛮行」と激怒するに至ることとなる<ref>当時、東大哲学科の助手だった[[加藤尚武]]は[[丸山男]]が学生たちから「吊るし上げられた」現場を目撃している。その回想は、[[加藤尚武]]『進歩の思想・成熟の思想―21世紀を生きるために』(講談社学術文庫 、1997)に詳しい。「吊るし上げられた」丸山男のその時の回想は、丸山のノートからの死後出版『自己内対話―3冊のノートから』(みすず書房、1998)に詳しい。なお当時、「吊るし上げた」学生(ポストドクター)の一人だった[[長谷川宏]]の『丸山真男をどう読むか』(講談社現代新書、2001)も参照。 </ref>。
 
この変化の原因に、[[すが秀実|絓秀実(すが秀実)]]は、多くの新制大学が誕生したことによる高等教育の普及・大衆化により、大学卒がアッパーミドル・クラスへの参入の保障ではなくなり、「国民=市民の理念型たる教員と同程度のアッパーミドル・クラスのステイタス」<ref name="kakumeitekina"></ref>への保障によってなりたっていた大学の「信用」が崩れ、国民国家の中の大学の存立根拠そのものが問われたことに理由を見ている。学生は、「自らの置かれた無根拠な地位」に直面することとなる。事実全共闘は、多くのいわゆる「中堅大学」によって担われた。[[すが秀実|絓秀実]]は全共闘によって掲げられた「戦後民主主義批判」というスローガンもここに由来すると論ずる。
 
== 評価 ==
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2009年刊行の、膨大な関連資料(ただし二次的文献ばかりで一次的な文献史料は無い)を引用した大著『1968』、[[小熊英二]](新曜社)においては、全共闘運動が発生した原因として、「小中学生時代に[[戦後民主主義]]の理想的教育をうけた彼らが、その後の受験競争に罪悪感を抱き、また大学のマスプロ教育に失望したこと」「日本が発展途上国だった時代に幼少期をすごした彼らが、高度成長の結果として先進国となった日本社会に違和感を抱き、また『豊かな社会』特有の『現代的悩み』を抱いていたこと」をあげている。また、ベビーブーマー世代が同様に学生運動を起こした欧米諸国と比して、日本の全共闘世代でその後、政治活動に関わった者が少ない理由として、「急速な勢いで先進国化した日本においては、学生運動は『政治運動』ではなく『自己表現』であったためではないか」としている。
 
もっとも[[小熊英二]]の、「権力の悪に対して純粋な正義感から反抗を開始したが、体制の厚い壁の前に挫折を余儀なくされ、ついには「連合赤軍事件(1972)をシンボリックな頂点とする「内ゲバ」によって自壊していった」」<ref name="kakumeitekina"></ref>という、いわゆる「「自分」を探して「自分」を表現」しようとするが「挫折」した、という疎外論に集約させる視点(そこにおいて、その「典型像」として[[田中美津]]が「不可避的なターゲット」<ref name="anozidai">友常勉 『「あの時代」の脱神話化」』、図書新聞2009,9,5</ref>となっている)および心理主義的手法は「今なお多くのものを規定している通念にすぎない」」<ref name="kakumeitekina"></ref>という意見もある。
 
また、小熊の当書は、最終的に60年代[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]及び、その象徴的存在であった[[小田実]]と[[鶴見俊輔]]に可能性の核心を求め、「「戦後民主主義の救済と再論のためのパラダイム創出を目的意識としている」がゆえに、「事実誤認や独断が少なからず存在」し、「一つの立場から記述される論理的構成は資料の文脈を横領」してい、またその全共闘運動と新左翼運動についての資料駆使は、「既刊資料による記述とそこで明らかにされてきた事実経過を出ている」わけではなく、「当事者に対する対面的な責任がかかる」「文字資料を裏づける聞き取りが不足」」<ref name="anozidai"></ref>しているという評もある。
 
一方、[[小熊英二]]の論考に対照的なものとして、1968年を中心にして起こった動きを「確かに68年が単にロマン主義的な反抗とその挫折としてのみ括りうるものであるなら、小熊の論も正鵠を得てい」<ref name="kakumeitekina"></ref>るとしながらも、[[ウォーラステイン]]の「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は1848年に起こっている。二度目は1968年である」(『反システム運動』(1989))や68年を決定的な歴史的結節点とする、[[リオタール]]の『ポストモダンの条件』や[[蓮実重彦]]の東大総長演説集『知性のために』(1998)などを部分的な参照先としながら、世界的な「68年の革命」及び、それを準備し、かつ触発された、[[フーコー]]・[[ドゥルーズ]]・[[デリダ]]などのいわゆる「68年の思想」にパラレルなものとして、かつ、「日本」という場に限定しつつ抽出しようとしたものに、[[すが秀実]]の『革命的な、あまりに革命的な-1968年の革命試論』がある。
 
なお、その著において、「68年(の革命)において決定的な重要性」<ref name="kakumeitekina"></ref>をもつとしている、ノンセクトのアクティビストであった[[津村喬]]は、全共闘を、1984年になって『中央公論』誌上で、「国家権力奪取が革命だとはだれも考えなくなり、具体的な局所での国家との対峙が課題」となり「大義に頼らず、消費社会の相対主義に解体されてしまうことなしに、どうやって国家とのあらゆる局面での対峙を続けうるのか、「交通」を可能にするか、これこそが、ここ十余年にわたっていく十いく百万人の人々が必死で模索してきたことである。この実践の束と網の目にこそ全共闘の「総括」はあった」<ref>津村喬 「<逃走>する者の<知>-全共闘世代から浅田彰氏へ」『中央公論』99巻9号、1984年9月</ref>と総括している。確かに全共闘を経験したものが、今までとは違う自然派の生協運動やエコロジー運動、フェニミズム、マイノリティ運動など、多様で分散的な活動を維持し、うまくいっているところもある、という事実はある。
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== 総選挙への影響 ==
 
全共闘、あるいは、68年の他の世界の学生反乱においては共通して、拠点の占拠と大衆団交という戦術がとられた。これは当時珍しい現象であり、ヨーロッパにおける19c末から20c初頭の歴史上のアナルコ・サンジカリズムの定石といえる戦術が冷戦時、突然復活した<ref>長崎浩「自由のつけ」p23『情況』8・9月号「なぜ今、全共闘か」特集、2009年</ref>。「1968年」の問題系とは、民主主義の問題を代議制の機能の問題に縮約することを断固として退け、その代議制からあふれだすような「政治」の次元が存在することを強調して、既存の政治・社会制度や民主主義の問い直しを行うことにあった<ref>座談会「ルソーの不在、ルソーの可能性」における王寺賢太の発言p13、『思想』2009年11月、岩波書店</ref>。
 
[[村上信一郎]]は、西欧の左翼政党は「68年世代」の反乱によって大混乱に陥ったが、そのエネルギーの少なくとも一部を吸収することを通して、大きく変貌していった、しかし日本では、「68年世代」が「企業社会」に飲み込まれていったことによって、従来の左翼政党にはほとんど何の変化も生じず、このことが全般的な「左翼」の退潮につながったと論じている。言い換えれば全共闘世代(「団塊」の世代)の多くが、高度成長がピークを迎えるころには、はやばやと政治の季節を「卒業」して、「企業社会」の主要な担い手となり、欧米諸国のように「脱物質主義的価値」の唱道者にもならなければ、「新しい社会運動」の担い手にもならず、西欧の68年世代とは根本的に異なるコースを辿っていった<ref>村上信一郎、「日本社会党とイタリア社会党」、p178、山口二郎、石川真澄編、『日本社会党』、日本経済評論社、2003</ref>。
 
短期的には、{{和暦|1969}}12月の[[第32回衆議院議員総選挙|総選挙]]では、当時の[[佐藤栄作]]内閣を支える[[自由民主党 (日本)|自民党]]が20議席増やし300議席を超えた。一方、[[日本社会党|社会党]]は新聞社の当落予想を(朝日新聞はプラス・マイナス8の118議席)を大きくこえて、約50議席を減らし90議席に転落、大敗した。[[公明党]]は25議席から47議席に躍進。全共闘・新左翼勢力と激しく対立した[[日本共産党]]も5議席から14議席に躍進し、多党化が進行した。投票率は前回より5.5%減の68.5%に急落した。また、この1969年以降から、無党派層が急増し始め、一方で社会党支持率が停滞を始めた。
 
社会党のこの突然の支持率の急落に対して、全共闘運動の直接的な影響と関連を見出すものには、[[石川真澄]]の言説がある<ref>石川真澄 『データ戦後政治史』 岩波書店〈岩波新書〉、1984年10月、p153~157</ref>。石川によれば、社会党はこの総選挙に際し、「一部学生の暴力的行動」を全面否定する統一見解を出していた。しかし、下部組織の[[社青同]]に新左翼系の勢力を抱え、三派全学連については「各全学連の共通する思想であるトロツキズムと誤った戦術については思想闘争を強め、広範な学生のエネルギーをわれわれの戦列に加えるよう努力する」<ref>1968年1月、第30回党大会における中央執行委員会統一見解</ref>という見解を示すなど、共産党と比べ新左翼・全共闘勢力との峻別の度合いが低かった<ref>共産党は、当時委員長の[[宮本顕治]]が[[東大紛争]]に直接乗り出し、指導した。共産党は、当時「70年代の遅くない時期に民主連合政権の樹立を」というスローガンの下に、議会主義に転換していく過程であった。したがって、ゲバルト(暴力)には敏感だった。共産党も、東大紛争時、新左翼との「抗争」の対抗上、非公然に通称「あかつき行動隊」というゲバルト学生部隊を大規模に組織していたが、1969年1月の安田行動攻防戦の前夜に、宮本の指導のもと、「ゲバ棒」一本も残さず撤収するなど、内ゲバの悪いイメージが自分たちのところに及んでくるのを避けることに成功した。当時の共産党の学生組織、民主青年同盟に所属していた当事者の回想として川上徹・大窪一志『素描・1960年代』、同時代社2007、第5章東大紛争前後、および当時「あかつき行動隊」の隊長格であった、宮崎学『突破者』が当時の共産党から見た東大紛争に詳しい。</ref>。[[石川真澄]]は、社会党のこのような態度が[[チェコ事件]]や中国の[[文化大革命]]など社会主義へのマイナスイメージにつながる事件に対する曖昧な対応と重なり、社会党支持者層が大量棄権、総選挙大敗、そして社会党離れによる無党派層の増大に結びついたと指摘している。
 
 
== 全共闘内部の世代格差 ==
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このような世代的な格差は、[[小阪修平]]([[三島由紀夫]]が東大全共闘と対話集会をもったときの積極的な発言者の一人である)の全共闘論<ref>小阪修平 『思想としての全共闘世代の全共闘論』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2006年</ref>においても確認できる。
 
 
 
== エピソード ==
*「全共闘」ではなく「'''全学闘'''(ぜんがくとう)」という言い方もあった。また、個別の組織ごとに独自の呼称があることもあり、[[中央大学]]のものは「全中闘」と称した。
*全共闘は戦う部隊=闘争委員会が直接結合してゆく組織・運動形態であったことから、[[日本共産党]]とその青年組織[[日本民主青年同盟]]が主張するような、[[学生自治会]]中心の代表制民主主義の方針を革命主義の立場から「[[ポツダム宣言|ポツダム]]民主主義」あるいは「ポツダム自治会」として全面的に否定した。日本共産党=民青は「民主的教官や民主的当局者も含めた大学民主化」を掲げ、全共闘の「帝大解体」路線とは相容れる部分はまったくなかった。むしろ、民青はバリストを快く思わない学生を組織し、大学での支持者を増やしていったといえる。東大では全共闘と民青との対立が特に激しく、両者が武装し、襲撃や衝突がたびたび起こった。武装のための角材を全共闘は「ゲバ棒」、民青は長さ太さが一律に決められた樫の棍棒を「民主化棒」と名付けていた。また、民青は全共闘のことを「全狂頭」と呼んだ。
*大学の建物を占拠した際、運動の精神に理解ある[[進歩派]]や[[マルクス経済学]]者の教官さえも体制側とされ、多くの教官の研究室はことごとく破壊された。「安田講堂攻防戦」において[[篠原一 (政治学者)|篠原一]]教授の研究室が破壊されてマイクロフィルム資料などが焼失したことについて東大法学部教授(当時)の[[丸山眞男]]「ナチスもやらなかった蛮行」と全共闘を非難した(この事件については「丸山自身の研究室が破壊された」という誤解が流布されている)。のちに[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インター]]は「たまたま自分たちが担当した建物に篠原の研究室があったのであって、ただ単に寒かったから書類やフィルムを手当たりしだい燃やして暖を取っただけ。丸山の感情的な物言いは『日本の進歩派はこんな程度なのか』と当時こちらが驚いた」と当時の第四インター部隊の指揮者が機関紙で明かした。
*関東の大学だけでなく、関西でも学生運動の長い歴史を持つ[[京都大学]]の全共闘などが[[百万遍解放区闘争]]を行い、[[龍谷大学]]では[[本願寺解体闘争]]が展開された。また、[[立命館大学]]の全共闘は「[[わだつみ像|わだつみの像]]」を破壊し、「形式的」として戦後秩序を批判した。
*[[皇室]]所縁の[[学習院大学]]にも全共闘があり、キャンパスでの集会の後、散らかったビラなどをきれいに片付けたことから、「さすがは学習院の全共闘は育ちが良い」と冗談に言われた。