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1941年、セゼールは妻らと文芸雑誌『熱帯』 ''tropiques''を創刊。この年、パリ陥落によりマルセイユから海路ニューヨークへ亡命途上の[[シュルレアリスム]]詩人[[アンドレ・ブルトン]]と出会う。ブルトンの乗った船はマルティニーク島に強制寄港させられたものであり、二人の出会いは全くの偶然であった。なお、この船には[[クロード・レヴィ=ストロース]]や[[ヴィクトル・セルジュ]]も同乗していた。ブルトンは『帰郷ノート』を絶賛し、セゼールの次の詩集『奇跡の武器』の序文を書いた。『熱帯』は一時期、[[検閲]]により[[発禁]]処分を受けるもド・ゴール派の総督が就任したことで再び発行許可を得た。黒人詩人セゼールと『熱帯』はニューヨークなどで評判となった。
 
1945年、終戦を迎えたセゼールは、[[フランス共産党]] から立候補し、マルティニーク島の首府である[[フォール・ド・フランス]]市長に当選(2001年に引退するまで同職にあった)。さらに共産党のフランス国民議会議員に選出された。翌年、植民地であったマルティニークの海外県化法案を起草する。しか県化法案は成立し、議会与党はいうまでもなマルチニーク市民の多フランス共産党もこに歓迎さを認めるた<ref name="尾崎">尾崎文太 2008</ref>。県化法同化法とも呼ばれたなく、エメ・セゼールは孤立植民地からの解放としていっ制度的同化を肯定しつつ従属や文化的同化を拒絶し<ref name="尾崎" />。この経験をもとに『植民地主義論』を執筆、1950年に発表している。1956年には[[ハンガリー動乱]]におけるフランス共産党のソ連追従を直接の契機とし、フランス共産党を離党した。この時、フランス共産党書記長に宛てた体裁の『[[モーリス・トレーズ]]への手紙』 ''Lettre à Maurice Thorez''を記している。その後も1958年に自らの政党マルティニーク進歩党を立ち上げ1993年に引退するまでマルティニークの代表としてフランス国民議会議員を務めた。この間も多く作品を執筆している。
 
妻とは1963年に別れ、彼女はその3年後に50歳で亡くなっている。