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'''林伊佐緒'''(はやし いさお、[[1912年]][[5月11日]] - [[1995年]][[9月29日]])は、[[山口県]][[下関市]]生まれの[[日本]]の[[歌手]]・[[作曲家]]。[[日本歌手協会]]4代目会長。[[明治大学]][[中退]]。昭和50年に[[紫綬褒章]]、58年には[[勲四等]][[旭日小綬章]]を受賞。没後、功績により、[[従五位]]を追贈されている。
 
 
== 経歴 ==
明治45年、下関で誕生。昭和6年には明治大学在学中にアルバイトでレコード吹き込みをし始めたが、学校側に発覚し中退。[[兵役]]を経た後に昭和9年、マイフレンドの名で本格的に歌謡界へデビュー。この芸名は大不評を買い、程なく本名「林 勲」にちなみ同じ読みの「林"伊佐緒"」にした。
 
昭和11年に[[キングレコード]]へ入社。以降亡くなるまでキング専属だった。
 
昭和12年「もしも月給が上ったら」がヒットし、一躍名を知られるようになる。デビュー当初から自身の歌を自ら作曲し持ち歌の大半が自身の作曲(他人の曲を歌わない訳では無い)によるものであったことから、'''日本最初の[[シンガーソングライター]]'''と言われている。
 
昭和14年には[[講談社]]企画である「[[出征兵士を送る歌]]」の作曲部門の公募に参加し、見事1等当選した。他にも「[[男なら (軍歌)|男なら]]」「くろがねの力」(コロムビアから出されたヒット盤とは別曲)なども作曲し(時には自ら歌い)、ヒットさせた。
 
戦後も、昭和25年には「ダンスパーティーの夜」、昭和29年「真室川ブギ」、昭和30年「高原の宿」、昭和32年「そっとこのまま」を大ヒットさせ、戦前~戦中以上の活躍をした。
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[[NHK紅白歌合戦]]には第1回から、計11回出場している。
 
[[1972年]]には戦後27年間も[[グアム]]島のジャングルに潜み続けて話題となった[[横井庄一]]元[[軍曹]]の帰国を歓迎する歌を発表したこともある。
 
[[日本歌手協会]]理事長を長く努め後、平成元年4月から7年3月までは[[日本歌手協会]]会長として後輩歌手のため奔走した。会長職を退いた後は[[相談役]]に就任した。
 
平成以降、年々自分と同じ年代の歌手/後輩の歌手が矢継ぎに亡くなったことに対し「私もすっかり[[シーラカンス]]ですな」「次は僕の番だ」とジョークを飛ばす一方、テレビ番組で在りし日の同年代歌手と自分が歌っている映像を見て号泣していたこともあった。
 
亡くなる三日前にはラジオの仕事([[大沢悠里のゆうゆうワイド]]にゲスト出演)をするなど、最晩年まで精力的活動を続けたが、平成7年9月29日に[[肺炎]]のため没。