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|配偶者=アティリア、マルキア
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'''マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス'''(ラテン語:'''{{lang-la|Marcus Porcius Cato Uticensis}}''', [[紀元前95年]]-[[紀元前46年]]4月)は[[共和政ローマ]]期の[[紀元前1世紀]]の政治家である。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られる。[[ポエニ戦争]]の時代に活躍した[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]](大カト)の曾孫にあたり、このカトと区別するため'''カト・ウティケンシス'''(Cato Uticensis)または'''小カト'''(Cato Minor)と称される。なお、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]は娘婿に当たる。
 
== 生涯 ==
=== 幼少期・青年期 ===
カトは[[紀元前95年]]に、マルクス・ポルキウス・カト・サロニアヌスと妻リウィアの息子として生まれたが、幼少期に両親を失った。その為、リウィアの叔父であったマルクス・リウィウス・ドルススの許に預けられ、[[クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ (小カエピオの息子)|クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ]]([[小カエピオ]]の息子)らと共に育てられたが、叔父ドルススもカトが4歳の時に[[同盟市戦争]]に従軍して戦死した。早くから親類者を失うという不遇な若年期を過ごしたが、異父兄に当たるカエピオとは大変仲が良かったとされる。
 
成人したカトは両親が残した遺産を受け取った後に、叔父の家を出て、[[ストア派]]哲学と政治の研究を始めた。当初は曽祖父カト・ケンソリウス(大カト)とは異なり穏やかな生活であったが、ここで最低限の衣服と雨に耐えることを学んだ。贅沢は避け、必要最小限の食事と、市場で簡単に手に入る安価な[[ワイン]]を好んで飲んだと伝えられる。これらはストア派の哲学に基づくものであった。カトは、ストア派のフォーラムに参加したときは、その弁論で大いに評価を受けた。
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=== キャリア初期 ===
紀元前72年、[[第三次奴隷戦争]]で[[執政官]]ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ配下の[[トリブヌス・ミリトゥム]]として従軍したカエピオのために義勇軍としてカトは参戦。ゲッリウス軍は敗北を喫したが、カトは果敢さを示し一定の評価を得た。ゲッリウスは賞を与えようとしたが、カトはこれを辞退した<ref>[[プルタルコス]]「英雄伝」小カトー8</ref>。
 
紀元前67年、カトは[[マケドニア属州]]で軍務につき陣頭指揮を取った。ローマ軍の[[兵站]]を担当して、寝食を兵士と共にし、厳しい軍律を兵士に強いたが、軍団兵はカトを支持したと伝えられる。カトがマケドニアで軍務に就いていた最中に、最愛の従兄弟カエピオが[[トラキア]]で重篤に陥ったとの知らせを受けた。激しい荒天の中でカエピオの元へと向かったものの、到着した時には既にカエピオは死去していた。贅沢を生涯避けたカトであったが、唯一カエピオの[[葬儀]]だけは誰からも支援は受けずに自らの負担で大きな費用をかけたと伝わっている。カエピオの遺産は、カエピオの娘セルウィリア(Servilia)とカトの間で分けられた<ref>プルタルコス「英雄伝」小カトー11</ref>。
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=== カティリナ事件 ===
[[ファイル:Maccari-Cicero.jpg|250px300px|thumb|''"Cicerone denuncia Catilina"''、キケロによる[[カティリナ弾劾演説|]]を描いたイタリア人画家[[チェーザレ・マッティナ弾劾]]([[w:Cesare Maccari|en]])による[[1888年]]の作]]
元老院議員となったカトは、頑固な性格であり、[[元老院]]の会議は全て出席した上で、会議の席で政敵を批判した。カトは元老院議員となった当初から、[[オプティマテス]](閥族派)に所属したが、オプティマテスに属する人物の多くがスッラに繋がるものであったに対して、カトはオプティマテスが[[元老院]]を中心とした政体維持を主目的としている為に属したのであった。なお、カトは若い時分よりスッラを軽蔑していた。
 
紀元前63年、[[護民官]]に選出されたカトは、当時ローマを揺るがせていた[[ルキウス・セルギウス・カティリナ]]の一派による国家転覆の陰謀へ対処していた[[執政官]][[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]を支援する立場に立った。元老院でカトは、カティリナによる国家転覆の陰謀を鎮圧する為に、[[プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラ]]らのカティリナ一派を死刑にするように提案、カティリナに関るあらゆる人間を告発し、[[クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス (紀元前77年の執政官)|クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス]]らもカトの提案に賛意を示した。一方で、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、カティリナ一派が有罪であることには同意したが、死刑とすることには反対し、財産を没収した上で一連の騒動が鎮静するまで獄に繋ぐべきと論陣を張った。結局はキケロによる裁断で、カティリナ一派に対する死刑が決定。元老院はカティリナ一派へ「[[セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム]]」を決議した。カティリナ自身はイタリア北部へ逃れて挙兵したものの、ローマ軍との戦いで敗死した。
 
カトにとって、生涯の政敵となったカエサルとの関係はこのカティリナ事件から始まることとなった。カトは、カエサルがカティリナ一派と共謀して国家転覆を企んでいたとしてカエサルを激しく追及した。元老院でのカエサルとカトの議論が行われていた最中に、カエサルに対して一通の文書が届けられた。カトはその文書に関して追及し、カエサルからその文章を受取ったが、カトの姉に当たる[[セルウィリア・カエピオニス|セルウィリア]]からカエサルに当てられた[[ラブレター]]であった為、カトは大いに恥をかき、以降はカエサルとセルウィリアの間の醜聞に議論が移ってしまい、上記の話題は吹き飛んでしまったと伝わっている<ref>プルタルコス「英雄伝」ブルトゥス5</ref>。なお、セルウィリアは後に離婚を余儀なくされた。
 
=== 三頭政治体制との対決 ===
紀元前61年、[[シリア属州|シリア]]・[[パレスティナ]]等をローマの属州とした[[グナエウス・ポンペイウス]]は、凱旋式をローマで行う為に、執政官の選挙を凱旋式終了まで延期するように元老院へ依頼した。元老院の一部に認める動きがあったものの、カトはこれに反対して、ポンペイウスの提案は認められなかった。ポンペイウスは関係作りのために自身より遥かに若輩であったカトの娘を自らの妻へ迎えたいと申し込んだが、カトはこれに一切取り合わなかった為、ポンペイウスは人気を落とした。これらの仕打ちによってポンペイウスは元老院への不満を持つこととなった。
 
同じく、紀元前61年、[[ヒスパニア・バエティカ|ヒスパニア・ウルステリオル]]属州総督の任期を終えたカエサルも上記のポンペイウスと同様の内容を元老院へ依頼したが、元老院はこれを拒否。カトは元老院で日が暮れるまで長時間に及ぶ演説を行うことで議事進行の妨害行為を行った。その為、カエサルは凱旋式を諦めて、ポンペイウス及び[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]と政治同盟([[第一回三頭政治|三頭政治]])を結び、紀元前59年の執政官選挙でカエサルは三頭政治の密約の通りに[[執政官]]に当選した。なお、カエサルの同僚の執政官は[[マルクス・カルプルニウス・ビブルス]](カトの娘ポルキアの最初の夫)であったが、オプティマテスはカエサルへ対抗するためにビブルスへ進んで資金を提供した。清廉で知られたカトも必要悪としてこの買収を認めた、と伝わっている。<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]「皇帝伝」カエサル[[wikisource:The_Lives_of_the_Twelve_Caesars/Julius_Caesar#19|19]]</ref>
 
カエサルは農地法案を提出したが、カトは農地法案の成立を長時間の演説によって阻止しようしたため、カエサルは[[リクトル]]に命じてカトを元老院の議場から強制退場させた。しかし、一部の元老院議員が「カエサルと元老院にいるよりは、カトと共に牢獄にいる方が良い」と宣言し、多くの元老院議員もこの強制行為に対して異議を申し立てた。その為、カエサルはカトへの強制退場を解除させざるを得なかった。一方でカエサルは農地法案を反対の多かった元老院ではなく、[[市民集会]]へ提案した。ここでもカトやビブルスは反対の論陣を張ったが、市民から激しい抗議を受けたことからトーンダウンし農地法は成立した。なお、ビブルスは農地法成立以降は自宅に引き篭り、職務を放棄した。
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=== ローマ内戦 ===
{{main|ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)}}
紀元前49年1月、カエサルは[[元老院派]]を打倒するべく、イタリア本土と属州の国境であった[[ルビコン川]]を渡って、ローマへの進軍を始めた。カトはポンペイウスらの元老院派の中心人物であり、カエサルへの徹底抗戦を誓って、その年の任地であった[[シキリア属州]]へと向かったが、[[ガイウス・スクリボニウス・クリオ]]の軍に攻め込まれたカトは戦闘に入る前に、ポンペイウスの本軍が駐留していた[[アカエア]](ギリシア)へと逃れた<ref>カエサル「内乱記」[[Wikisource:The Civil War (Caesar)/Book 1#30|1.30]]</ref>。アカエアでカトは海軍を率いていたが、ポンペイウス率いる陸軍が[[ファルサルスの戦い]]([[紀元前48年]]8月)で敗北したことから、元老院派の強固な地盤の一つであった[[アフリカ属州]]へと逃れ、[[ウティカ]]へと入った。
 
[[ファイル:Louis-André-Gabriel Bouchet - La Mort de Caton d'Utique.gif|right|thumb|300px|''"La Mort de Caton d'Utique"''、カト自死、フランス人画家[[ルイ・アンドレ・ガブリエル・ブーシェ]](Louis-André-Gabriel Bouchet)による[[1797年]]の作]]
東方を平定したカエサルは紀元前47年12月にアフリカへ上陸した。カトはかつての婚約者アエミリアを妻とし、遺恨のある[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ]]と共にポンペイウス死後の元老院派の最高実力者の一人であった。軍団内にはカトを総指揮官としてカエサル派へ向かうとの意見もあったが、カトはメテッルス・スキピオに総司令官を譲って、自らはウティカの守備につくこととした。紀元前46年4月、元老院派はカエサル軍との決戦に敗北([[タプススの戦い]])、メテッルス・スキピオらは敗死、[[ティトゥス・ラビエヌス]]らはヒスパニアへと逃れた。
 
[[ファイル:Louis-André-Gabriel Bouchet - La Mort de Caton d'Utique.gif|right|thumb|230px|カト自死]]
タプススで勝利を収めたカエサルは、ウティカを包囲して、カトに降伏を迫ったものの、「カエサルによって許されるのは王者の徳を受け入れるもの」として、これを拒み、自害して果てた。なお、カトが刃を自らに突き刺したのを発見したカトの奴隷の一人は医者に連絡して傷口を縫合したが、カトは誰もいなくなったのを確認すると、包帯と縫合を引き剥がして、自ら腸を引抜いて絶命したと伝わっている<ref>プルタルコス「英雄伝」小カトー70</ref>。