「源頼朝」の版間の差分

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[[建久]]4年([[1193年]])5月28日、[[御家人]]を集め[[駿河国]]で巻狩を行っており、その夜に御家人の[[工藤祐経]]が[[曾我兄弟の仇討ち]]に遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、[[源範頼]]は嘆く[[北条政子]]に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流され、のちに誅殺された。建久5年([[1194年]])には有力御家人である[[安田義定]]を誅している。建久6年([[1195年]])3月、[[摂津国]]の[[住吉大社]]において幕府御家人を集めて大規模な[[流鏑馬]]を催す。建久8年([[1197年]])には、[[薩摩国|薩摩]]や[[大隅国|大隅]]などで[[大田文]]を作成させ、地方支配の強化を目指している。
 
[[建久]]6年(1195年)2月、頼朝は[[東大寺]]再建供養に出席するため、政子と[[源頼家|頼家]]・[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]ら子女達を伴って再び上洛し、長女・大姫を[[後鳥羽天皇]]の妃にすべく朝廷に入内運動を始める。だが、盟友である九条兼実は既に娘・[[九条任子|任子]]を入内させており、反対されることを頼朝は危惧した。そこで京都では兼実ではなく、その政敵である[[土御門通親]]や[[高階栄子|丹後局]]と接触。大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行ない、大姫入内のための朝廷工作を計った。建久7年(1196年)11月、兼実は後鳥羽天皇への通親の讒言により一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる([[建久七年の政変]])。これにより、朝廷の親幕府派の壊滅、反幕府派の台頭を招くこととなった。建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により失敗に終わる。建久9年(1198年)正月、後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ[[土御門天皇]]に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。もはや朝廷に代弁者を持たない頼朝の反対は無視された。頼朝はさらに次女・[[三幡]]姫の入内を企てるが、建久9年([[1198年]])12月27日、[[相模川]]で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は[[落馬]]と言われるが定かでは無い。
 
建久10年([[1199年]])1月11日に出家し、13日に死去した。[[享年]]53(満51歳没)。