「東京都第1区 (中選挙区)」の版間の差分
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当初、この地域は都市労働者の支持を得た[[革新]]勢力の力が強く、最初の[[1947年]]・[[第23回衆議院議員総選挙]]では[[浅沼稲次郎]]・[[原彪]]の[[日本社会党]]が2議席、[[野坂参三]]の[[日本共産党]]が1議席を獲得する革新優勢の結果となった<ref>保守唯一の当選者は[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]の[[櫻内義雄]]。櫻内は第24回選挙で落選し、その後参議院の[[島根県選挙区]]、さらに衆議院の[[島根県全県区]]に転じた。</ref>。野坂は続く[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]でトップ当選となったが、[[1950年]]に[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)から[[公職追放]]処分([[レッドパージ]])を受けて失職した<ref>その後、参議院の[[東京都選挙区]]で当選。</ref>。
1950年代の4回の総選挙では共産党が議席を失い<ref>同党は第27回の[[宮本顕治]]をはじめ、[[細川嘉六]]や[[聴
この状況を変えたのが[[麻生良方]]だった。浅沼の秘書だった麻生は[[1959年]]に[[民主社会党]]の結党に参加し、[[1960年]]の[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]で民社党公認で立候補して社会党委員長となった浅沼と対決した。この選挙の公示前に浅沼が[[赤尾敏]]が率いる[[大日本愛国党]]の元党員だった少年に刺殺される[[浅沼稲次郎暗殺事件|暗殺事件]]が発生し、社会党は妻の[[浅沼享子]]を擁立して原との2議席を守り<ref>トップ当選は初代[[東京都知事]]だった自民党新人の[[安井誠一郎]]。</ref>、麻生は次点に終わった。しかし、続く[[1963年]]の[[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]]で当選し、1期で引退した浅沼享子の議席を引き継げなかった社会党が後退した。
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|- style="font-weight:bold;"
|当
|style="text-align: right;"|149,304||田中栄一||style="text-align: right;"|
|- style="font-weight:bold;"
|当
|style="text-align:right;"|125,597||[[浅沼稲次郎|淺沼稻次郎]]||style="text-align: right;"|
|- style="font-weight:bold;"
|当
|style="text-align:right;"|97,833||[[原彪]]||style="text-align: right;"|
|- style="font-weight:bold;"
|当
|