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{{基礎情報 過去の国
|略名 = タタバシキール自治共和国連邦
|日本語国名 = バシキール自治ソビエト社会主義共和国連邦
|公式国名 = {{lang|rus|Башкирская Автономная Советская Социалистическая Республика}}<br/>{{lang|bak|Башкорт Автономиялы Совет Социалистик Республикаhы}}
|建国時期 = [[1920年]][[5月27日]]
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|元首等氏名1 = バシキール首相
|面積測定時期1 =
|面積値1 = 143,600km2600km<sup>2</sup>
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
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}}
 
'''バシキール自治ソビエト社会主義共和国'''([[バシキール語]]: ''Башҡорт Автономиялы Совет Социалистик Республикаhы''; [[ロシア語]]: ''Башкирская Автономная Советская Социалистическая Республика'')は[[ソビエト連邦]]の[[自治ソビエト社会主義共和国]]。現在は[[バシコルトスタン共和国]]として知られている。
 
この共和国は[[ヨーロッパ・ロシア]]の南東端、143,600km2600km<sup>2</sup>の面積を統治し、国境の東端は[[ウラル山脈]]で、南端は[[カザフスタン]]国境から70kmの距離にある。
[[キプチャク・ハン国]]に支配された[[13世紀]]の間、この領域はステップの遊牧民であるトルコ系[[バシキール人]]に植民された。ロシア人は16世紀の中ごろに訪れ、現在も共和国の首都である[[ウファ]]の街を建てた。世紀にまたいで起こった大規模な[[ロシア人]]の植民に反対して、この地域では多数の暴動が起こった。バシキール人は最終的に19世紀になってから遊牧生活をあきらめ、彼らの支援の主な方法として残った農業的生活を取り入れた。伝統的な一族を基にした社会構造は多くが消えていった。
 
バシキールの人々に多い宗教は多数派に守られた[[イスラム教]]であり、次いで[[ロシア正教]]である。1919年、[[ロシア内戦]]で主要な戦場になったバシュキールは新しい[[共産党]]政権の下で[[ロシア・ソビエト社会主義共和国|ロシア]]の自治共和国と称された最初の民族領域であった。この国は地下資源が豊富である。特に[[石油]][[天然ガス]][[鉄鉱石]][[マンガン]][[]][[]]、建設石材などがとれる。ソビエト政府はこの資源をもとに多様な重工業を建てた。
 
この共和国は1990年に[[ソビエト連邦]]の中での主権を宣言し、1992年完全な独立を宣言した。2年後、バシコルトスタンは共通領域の権限を認める条件で、[[ロシア連邦]]の法律に定められた枠にとどまることに合意した。伝統的バシュキール人の職業である、畜産や用法は現在でも重要な経済活動のままである。
 
バスコスタンの人口は1995年で400万人である。1989年の時点で人口のうち[[ロシア人]]39%、[[タタール]]28%、[[バシキール人]]22%、[[チュヴァシ人]]3%、[[マリ人]]3%の割合であった。
 
{{ロシア革命後の国家}}