「モラヴィア王国」の版間の差分

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荒らしてんのはお前だろくず野郎
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== 歴史 ==
9世紀前半、文献にモラヴィア王国についての記述があらわれる。初代君主の[[モイミール]](位830頃-846)は、カトリックのザルツブルク大司教座による布教をみとめた。しかし、[[846年]]に即位した[[ラスチスラフ]](ロスティスラフ)は、[[東フランク王国]]の圧迫に対抗する必要性から[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]・[[正教会]]との結びつきを図り、宣教師[[キュリロス]]と[[メトディオス]]を招いた。この際に[[グラゴル文字]]が作成された。しかし、ロスティスラフは東フランク王国と結んだ甥の[[スヴァトプルク]](スワトプルク)に離反され失脚し、スヴァトプルク(スワトプルク)は最終的に東フランク王国に従った。これによってビザンツ東ローマ帝国から招いた修道士たちは追放され、モラヴィア王国の[[カトリック教会|カトリック]]受容が決定的になった。スヴァトプルクの死後は王位継承をめぐる争い、東フランク王国の圧力、さらに[[マジャル人]]の侵入により荒廃し、10世紀前半に事実上滅亡した。
 
== 関連項目 ==