「市川團十郎 (8代目)」の版間の差分

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| 没日 = 27
| 本名 =
| 襲名歴 = 1. 二代目市川新之助<br />2. 六代目市川海老蔵<br />3. '''八代目市川團十郎'''<br />4. '''三代目市川白猿'''
| 俳名 =
| 別名 =
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面長の美貌で、歴代の團十郎とはまったく仁のことなる[[二枚目]]役者であった。[[天保の改革]]によって一時非常な不況をこうむった江戸の劇壇が人気を回復したのは、八代目團十郎に負うところが大きかった。上品ななかに独特の色気があり、おっとりとした愛嬌が身にそなわっていて、いやみがなかった。さわやかで高音の利いた調子で、[[科白]]回しがうまく、こうした特色は彼が初演した『[[与話情浮名横櫛]]』(切られ与三)の与三郎によくあらわれている。
 
[[嘉永]]7年 (1854)、[[大坂]]の芝居に出演していた父・海老蔵を訪ねて[[東海道]]をのぼり、[[名古屋]]で父といっしょになって舞台をつとめた。7月中には大坂に着き、[[道頓堀]]で[[船乗込み]]を行って[[稽古]]にかかったが、初日の8月6日に[[旅館]]の一室で突如[[自殺]]する。享年32。動機は不明だが、一説には図らずも大坂の芝居に出演することになってしまったため江戸の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれる。
 
得意な役柄は前述の切られ与三』の与三郎のほかに、『[[菅原伝授手習鑑]]』の梅王、『[[児雷也豪傑譚]]』の児雷也、『[[助六所縁江戸桜]]』の花川戸助六、『[[偐紫田舎源氏]]』の足利光氏などの二枚目のほか荒事も好んで演じつとめた。団十郎[[市川宗]]の芸に和事芸という新しい分野を開拓の芸の系譜は[[市川團十郎 (11代目)|十一代目十郎]]に引き継がれていることになる。
 
独身で後嗣がなく、弟の初代[[河原崎権十郎]]が[[市川團十郎 (9代目)|九代目團十郎]]を襲った。
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{{DEFAULTSORT:いちかわ たんしゆうろう08}}
[[Category:歌舞伎役者]]
[[Category:武蔵国の人物|舞いちかわ たんしゆうろう]]
[[Category:1823年生]]
[[Category:1854年没]]