「上田卓三 (政治家)」の版間の差分

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レフチェンコ氏の証言
経済準学士 (会話 | 投稿記録)
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'''上田卓三'''(うえだ たくみ、[[1938年]][[6月24日]] - [[2005年]][[5月26日]])は日本の[[政治家]]。元[[衆議院議員]]・[[部落解放同盟]]委員長。
 
==人物==
[[大阪市]][[東淀川区]]に生まれる。大阪市立扇町第二商業高等学校定時制(現[[大阪市立中央高等学校]])卒業。[[1958年]]に解放同盟へ参加。前後して[[日本共産党]]に入党するも、[[1964年]]に[[志賀義雄]]らが[[部分的核実験停止条約]]の批准をめぐり[[日本共産党 (日本のこえ)]]を結成すると後を追う。その後解放同盟大阪府連書記長・委員長を歴任し、部下の解放同盟員らと日本社会党に集団入党する。[[1970年]][[2月17日]]、[[同和行政]]の[[窓口一本化]]を求め、約70名の部落解放同盟員と共に[[日本共産党]]議員控室に乱入、[[暴行]][[傷害]]事件を起こし、同年[[2月21日]]に共産党府議たちから[[告訴]]されるも、上田個人は[[起訴]]を免れ、解同大阪府連吹田光明町支部長Tのみが起訴される(Tは[[1979年]]に[[罰金刑]]が確定)<ref>[[部落問題研究所]]編『「解同」は何をしてきたのか』([[1994年]]、[[部落問題研究所]])巻末年表p.6 ISBN 4829810394</ref>。
 
[[1974年]]の[[第10回参議院議員通常選挙|参院選]]で[[大阪府選挙区]]から[[日本社会党]]公認で出馬するが、落選。2年後の[[第34回衆議院議員総選挙|衆院選]]で[[大阪4区]]から出馬して初当選する。以後連続6期務め、この間[[飛鳥田一雄]]委員長の下で国際局長・[[田邊誠]]委員長の下で党副委員長を務めた。[[1979年]]に米国へ亡命した元ソ連国家保安委員会([[KGB]])少佐[[スタニスラフ・レフチェンコ]]はその著書で上田を日本社会党内におけるソ連のスパイ協力者の一員であったと指摘。上田を'''ウラヌス'''と呼んでいたことを公表した。[[1988年]]に[[リクルート事件]]が発覚した際には[[コスモスイニシア|リクルートコスモス]]の[[未公開株]]の譲渡先の一人であったことが判明し議員を辞職([[1988年]][[11月4日]])したが、折からの社会党のマドンナ[[土井ブーム]]などによる追い風もあって2年後の[[第39回衆議院議員総選挙|衆院選]]で国政復帰。前年の[[第15回参議院議員通常選挙|参院選]]では自らの秘書だった[[谷畑孝]](現在は[[自由民主党]]衆議院議員)を[[参議院議員]]に送り込んでいる。[[1993年]]の[[第40回衆議院議員総選挙|衆院選]]で落選し、政界を引退。その後[[1996年]] - [[1998年]]に部落解放同盟委員長を務めたが、2005年5月26日、[[肝不全]]のため死去。[[享年]]66。
 
『'''人権'''、'''中小企業'''、'''国際交流'''の上田卓三』を売りにしていたこともあって、殊に[[被差別部落]]における[[中小企業]]振興で力を振るった。[[1968年]]に、部落関係者の企業団体「部落解放大阪府企業連合会」を介した[[税金申告書]]を事実上フリーパスとする合意([[七項目の確認事項]])を当時の[[高木文雄]][[大阪国税局]]局長と取り付けた。後に上田はこの合意により得た大義名分を基に、部落とは関係ない中小零細企業や個人事業者を対象とした商工団体「大阪府中小企業連合会」(略称・中企連)を立ち上げ、中企連は後に全国的な発展を遂げて現在の[[ティグレ]]となる<ref>ただし現在は「ティグレ」を通じて提出される申告についてはフリーパスという訳ではなく、一定の割合ではあるが、七項目の確認事項とは関係なく他の事業者と同様の税務調査が行われている。</ref>。しかしこの合意が却って[[脱税]]に悪用されるなど今日では[[同和利権]]の一つとして批判の対象になっている<ref>