「ザ・ベストテン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
637行目:
:1980年2月の「[[愛染橋]]」まではランクインすればほぼ毎回登場していた。しかし、1980年[[3月7日]]に[[三浦友和]]との[[婚約]]と同時に[[芸能界]][[引退]]を発表、その後「[[謝肉祭 (山口百恵)|謝肉祭]]」のランクイン辺りから、休暇や[[映画]][[ロケーション撮影|ロケ]]等の理由で出演辞退が多くなる(欠席時にはVTR放映の対応などもあった)。また、「[[ロックンロール・ウィドウ]]」の時は中継で数回出演しただけで、スタジオ入りはしなかった。そして最後のランクイン曲だった「[[さよならの向う側]]」では、10位だった1980年[[9月25日]]の一度のみスタジオ出演してフルコーラスを歌ったが、これが山口の最後の『ザ・ベストテン』登場となった(その同日の1位は当時「ポスト百恵」と言われた[[松田聖子]]の『[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]』。また同番組のスタジオで山口と松田の二人が共演したのもこれが最初で最後だった)。それから山口は同番組に一切出演せず、1980年[[10月15日]]を以て完全引退。なお、1980年11月リリースの「[[一恵]]」は最高位13位に留まり、ベストテン入りは成らなかった。
;郷ひろみ
:1982年「[[哀愁のカサブランカ]]」が10週連続『ザ・ベストテン』入りしたが、「愛する自分の曲に順位付けをされたくない」という理由でランキング番組への出演辞退を宣言。この曲以降、1983年の「[[素敵にシンデレラ・コンプレックス]]」と1984年の「[[2億4千万の瞳]]」の2曲がオリコンでベストテン入りし最高位が9位と7位であったが、『ザ・ベストテン』にはランキングされなかった。 この出演辞退の件については、後日放送された『[[中居正広の金曜日のスマたちへ]]』でのベストテン企画における本人への直接インタビューにおいて、本人の口から語られた。ただし後年の復活特番には出演している。
:出演拒否を表明した当時、郷が所属する[[バーニングプロダクション]]関係者や同事務所と関連の深いフジテレビ系の『[[夜のヒットスタジオ]]』のスタッフの意向に従って出演拒否を表明したとする説も囁かれていたが、同じ系列の『[[8時だョ!全員集合]]』や『[[ミュージックフェア]]』(フジテレビ)など他の非ランキング形式の音楽番組では、いかにバラエティーの色が強い番組であっても率先して出演し、新曲を披露し続けていることから、純粋に郷自身や彼に近い関係者らの音楽に対する考え方の変化の現われとして出た発言と見る向きが現在では一般的となっている。
:郷の出演拒否は1980年代前半のことで、当時は大きな話題になった。