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この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが([[ヘントの和約]])、アントウェルペン市民の反スペイン感情は深まった。1579年の[[ユトレヒト同盟]]にもアントウェルペンは加わり、反スペインの姿勢を鮮明とした。しかし、1583年末までに同市の周辺地域はスペインに占領されており、オラニエ公もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと、1585年8月にスペイン側のパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ]]に降服を余儀なくされた。
 
降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民は、アントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられた。そのほとんどがネーデルラント連邦共和国([[オランダ]])へと移住したことは、オランダが黄金時代を築いていく前提となった。一方、その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人の統制下におかれた。こうしたことの結果、アントウェルペンに代わってオランダのアムステルダムが世界商業・金融の中心地となっていった。
 
1648年、[[三十年戦争]]の講和条約である[[ウェストファリア条約]](そのうちのミュンスター条約)でオランダの主権が認められると、オランダはアントウェルペンの商業活動に壊滅的な打撃を与えるため、スヘルデ川の河口を閉鎖することを要求した。これには、スペイン・ハプスブルク家の統治下にある南ネーデルラントがオランダの脅威にならないようにする狙いがあったのだが、ネーデルラント南部が1795年から1814年まではフランスの統治下にあったこと、1815年から1830年まではオランダ立憲王国の統治下にあったことで、実際にはその統制は緩められていた。
 
===近現代===
1800年頃、アントウェルペンは最も停滞した時期を迎え、当時の人口は4万人以下にまで沈んだ。しかし[[ナポレオン]]は、アントウェルペンの戦略的重要性から、防波堤と2つのドックを建設するために港の拡張を図り、スヘルデ川にもっと大きな船舶が接岸できるように川底を掘り下げようとした。ナポレオンは、アントウェルペンの港をヨーロッパ屈指のものとすることで、ナポレオンと対立するイギリスの[[ロンドン]]港に対抗し、イギリスの力を抑えようとしたのである。しかし、ワーテルローの戦いで失脚したため、この構想は実現しなかった。
[[第二次世界大戦]]中は[[ドイツ]]に占領され、[[1944年]][[9月4日]]に[[イギリス]]第11機甲師団 ([[:en:11th Armoured Division (United Kingdom)|11th Armoured Division]]) によって解放された。連合軍はアントウェルペン港を物資の搬送に使ったため、この後、ドイツ軍はアントウェルペン港を破壊しようと試みた。街は第二次大戦史上最多の[[V2ロケット]]で攻撃されたが、港はロケット攻撃による破壊を免れた。しかしながら街自体はこの攻撃で大きな被害を受けた。
 
1830年、アントウェルペンはオランダからのベルギー独立を目指す反乱軍によって包囲された。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍が統率するオランダ守備兵がアントウェルペンを防衛したが、ベルギー軍の断続的な砲撃によって打撃を受け、フランス軍によるベルギー支援もあって、シャッセは勇敢に戦ったものの降服を余儀なくされた。
 
1843年には[[ケルン]]とアントウェルペンの間が鉄道で結ばれ、近代アントウェルペンの発展に貢献した。1863年にベルギーがオランダからスヘルデ川の航行自由権を買収したことも街の発展に寄与した。
 
1903年、初めての世界体操競技選手権がアントウェルペンで開催された。第一次世界大戦中、ベルギーは中立国だったにもかかわらずドイツ軍の攻撃を受け、アントウェルペンは[[リエージュ]]で敗れたベルギー軍の退却地点となった。その後、さらなるドイツ軍の厳しい攻撃によって、ベルギー軍はさらに西方への撤退を余儀なくされた。
 
アントウェルペンは1920年の夏期オリンピック開催地となった。1928年、アントウェルペンの補欠選挙で、「[[フロント党]]」の[[アウグステ・ボルムス]]が勝利した。このことがフランス系とオランダ系住民の対立を激化させ、当時の首相だったジャスパールは大学教育におけるオランダ語の使用を容認した。1936年にはアントウェルペン港で大規模なゼネストが発生し、ベルギー全土に広がりをみせた。このため組合・経営者・政府による全国労働者会議が開催され、労働者の権利が拡大した。
 
[[第二次世界大戦]]において、アントウェルペンはその港ゆえに戦略上の要所となった。1940年5月にドイツ軍によって占領され、1944年9月4日、イギリス第11機甲師団によって解放された。この後、アントウェルペン港から連合軍が新たな物資を荷揚げするすることを防ぐため、幾千ものV-1、V-2ミサイルを使って港を破壊しようとした。とりわけV-2ミサイルは戦争を通じてアントウェルペンに打撃を与えたが、その多くが他の建造物に当たったため港は破壊できなった。その結果、大戦を通じて港は守られたものの街は深刻な打撃を受け、大戦後になってモダン風に再建された。また、戦前よりかなりのユダヤ教徒がアントウェルペンにいたが、大戦後には再び超正統派、正統派ユダヤ教の中心地となった。
アントウェルペンは[[1920年]]の[[アントワープオリンピック|夏季オリンピック]]の開催地でもある。オリンピックにまつわる、ある調査において「最も有名でない(国と都市名が一致しない都市)開催地」という結果があった。
 
== 人口と言語 ==