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==概要==
[[朝鮮王国]]末期、[[京城府|漢城府]]の[[日本人]]居留民団が、内地人(日本人)の子弟を教育するために[[1909年]]に設立した、'''京城居留民団立京城中学校'''が同校の起源である。開校にあたっては、[[一進会]]から土地・建物を借りている。その後[[韓国併合]]により、同校は[[統監府]]、いで[[朝鮮総督府]]が所管する官立[[旧制中学校|中学校]]を経て、[[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]]に移管された。
 
日本統治時代の朝鮮においては、成績優秀な内地人男児の多くは同校への入学を目指し、一部の関係者が「'''朝鮮の[[学習院]]'''」という意識をもつほど、一貫して朝鮮の中学校の筆頭的存在であり続けた。[[1924年]]に創立された[[京城帝国大学]]の中でも同校出身者が最大多数を誇っていた。なお、言語・学力に問題が見られなければ、[[朝鮮人]]の入学も可能で、実際に内地人の生徒と机を並べて学習した生徒もいたことは統計から確実に判明するのだが、その数は非常に少なかった。
 
[[1945年]][[8月15日]]、日本が[[太平洋戦争]]に無条件降伏したのを境に同校の性質は大きく変わることとなる。同年[[9月24日]]に米軍の軍政布告によって日本人の学校が閉鎖命令を受け、その後内地人が本土へ帰還したことで、京城中学校は校名を'''ソウル中学校'''と改め、韓国人の学校として再出発した。[[1951年]]の学制改革によって同校は新制のソウル中学校([[1971年]]廃止)とソウル高等学校に分割され、現在に至っている。
 
ただし、同校の公式サイトの沿革では、[[1946年]]以後の年表のみが記され、それ以前の京城中学校時代については資料が残されていないため、言及されていない。
 
==名称の変遷沿革==
*1909年[[5月22日]] - 京城居留民団立京城中学校が開校。
京城居留民団立京城中学校 → 統監府中学校 → 朝鮮総督府中学校 → (官立)京城中学校 → 京城公立中学校 →(韓国独立)ソウル中学校 → ソウル高等学校
*[[1910年]]4月 - 官立となる。'''統監府中学校'''に改称。次いで8月、'''朝鮮総督府中学校'''に改称。11月、[[慶熙宮]]跡に新校舎が完成、移転。
*[[1912年]]6月 - [[寄宿舎]]完成。
*[[1913年]][[3月9日]] - 釜山中学校開校に伴い、'''(官立)京城中学校'''に改称。
*[[1915年]]4月 - [[平壌]]に分教室設置(翌年平壌中学校として独立)。
*[[1917年]]4月 - [[大田広域市|大田]]に分教室設置(翌年[[大田高等学校|大田中学校]]として独立)。
*[[1925年]] - 京畿道に移管され、'''京城公立中学校'''に改称。
*[[1933年]][[5月27日]] - 校舎が焼失。原因は不明。
*[[1935年]][[4月21日]] - 新校舎落成式と創立25周年記念式を同時開催。
*1945年8月 - 1946年に、日本の敗戦および内地人引き揚げ。「日本人の学校」としての歴史が終わる。
*1946年3月 - 韓国の学校として新たに開校する。[[修業年限]]を6年制に変更。
*[[1947年]]6月 - ソウル中学校に改称。
*1951年9月 - 学制改革によって、ソウル中学校(3年制)とソウル高等学校(3年制)に分かれる。12月、中学校を'''西大門中学校'''に改称。
*[[1953年]]7月 - 西大門中学校、旧名に復す。
*[[1969年]] - ソウル中学校、生徒募集停止。
*1971年 - ソウル中学校廃止。
 
==著名な出身者==
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==参考文献==
*[[稲葉継雄]]『旧韓国~朝鮮の「内地人」教育』九州大学出版会、2005年
*渡部学阿部洋編『日本植民地教育政策史料集成. 朝鮮篇 第53巻 - 第62巻』龍渓書舎、1988年
 
==関連項目==