「水原親憲」の版間の差分
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直江景明は将軍からの感状は貰っていないと思うのですが。他、一次史料による補筆。 |
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==生涯==
[[魚沼郡]][[浦佐城]]主[[大関親信]]の子として生まれる。『上杉将士書上』によれば、[[永禄]]4年([[1561年]])の[[川中島の戦い]]で武功を挙げ、[[上杉謙信]]より賞賛され
[[慶長]]3年([[1598年]])に景勝が会津へ移封されると、[[猪苗代城|猪苗代]][[城代]]に任じられ、5,500石の知行を与えられた。慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では[[慶長出羽合戦]]に参加して[[最上義光]]と戦い、[[長谷堂城]]からの撤退戦では[[鉄砲]]隊200名を率いて、追撃してくる最上勢に痛手を与え、上杉軍の撤退を成功させた。
慶長19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]では、[[鴫野の戦い]]で鉄砲隊を率いて大いに活躍し、将軍・[[徳川秀忠]]から感状を賜ったが、親憲は「子供の石合戦ごときのような戦で、感状を賜ることになるとは」と言い放ったという(人物・逸話参照)。これは、関ヶ原の戦いでは徳川との戦を主導しておきながら、{{要出典範囲|この戦で嫡男・[[直江景明|景明]]に感状を貰おうと躍起になっていた執政・[[直江兼続]]を皮肉ったものであろう。}}なお、この感状は[[祐筆]]の書き間違いで、宛名が「'''杉原'''常陸介」となっていた。親憲はこれに気づいていたが、将軍家からの感状であるのでそのまま戴いて異議を申し上げず、その後は姓を「杉原」に改めている(読みは「すいばら」のままである)。
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])5月13日死去。享年71。嫡男の助市は11歳で夭逝していたため、外孫(婿の[[下条正親]]の次男)の憲胤が養子となって家督を相続した。
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