「水原親憲」の版間の差分

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直江景明は将軍からの感状は貰っていないと思うのですが。他、一次史料による補筆。
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==生涯==
[[魚沼郡]][[浦佐城]]主[[大関親信]]の子として生まれる。『上杉将士書上』によれば、[[永禄]]4年([[1561年]])の[[川中島の戦い]]で武功を挙げ、[[上杉謙信]]より賞賛されたとう。確実な史料に親憲が登場するのは、[[御館の乱]]以降のことである。謙信の死後に起こった[[御館の乱]]では[[上杉景勝]]を支持したが景勝と合わなかった[[天正]]7年([[1579年]])2月、広瀬([[魚沼郡]])小平尾の地を攻め乗っ取った<ref>『上越市史 別編2』1575号</ref>。天正8年([[1580年]])5月には、[[深沢利重]]、[[栗林政頼]]らとともに上杉家田の守備についている<ref>『上越市史 別編2』1963号</ref>。親憲には、一時期[[会津]]の[[蘆名氏]]の元に身寄せていた伝承があるが<ref>『水原町編年史』第1巻では、御館の乱後、景勝の気を損ねたか、鬼小島弥太郎とともに出奔したとし、その時期を天正6年(1578年)から天正8年(1580年)の頃と推定している。一方「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜』)では、親憲は14、5才の頃、[[蘆名氏]]臣・中、長沼城代新田上総介([[新国貞通]]のか)身を寄せ奉公していとする。</ref>、同年6月には、[[蘆名盛隆]]の家臣栗村範通から、親交を求める盛隆の意を景勝に披露してほしいと依頼されている<ref>[[上杉将士家文上』]]702号、『水原町編年上越市 別編2第1巻1971号</ref>。帰参後天正11年([[1583年]])2月、[[越中]]防備にあたり、その功により知行を与えられた。「北越詩話」、「水原氏の研究」では、景勝の命により、天正14年([[1586年]])には、[[水原満家]]が[[新発田重家]]の乱で討死して断絶していた[[揚北衆]]・[[水原氏]]の名跡を継ぐことになったとしているが、[[文禄]]3年([[1594年]])2月、[[出羽]]最上表での戦功への景勝[[朱印状]]の宛名は大関常陸となっている<ref>『上越市史 別編2』3582号</ref>。『文禄三年定納員数目録』によればは水原常陸として、3,414石を知行し、149人の軍役を担った。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])に景勝が会津へ移封されると、[[猪苗代城|猪苗代]][[城代]]に任じられ、5,500石の知行を与えられた。慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では[[慶長出羽合戦]]に参加して[[最上義光]]と戦い、[[長谷堂城]]からの撤退戦では[[鉄砲]]隊200名を率いて、追撃してくる最上勢に痛手を与え、上杉軍の撤退を成功させた。
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]では、[[鴫野の戦い]]で鉄砲隊を率いて大いに活躍し、将軍・[[徳川秀忠]]から感状を賜ったが、親憲は「子供の石合戦ごときのような戦で、感状を賜ることになるとは」と言い放ったという(人物・逸話参照)。これは、関ヶ原の戦いでは徳川との戦を主導しておきながら、{{要出典範囲|この戦で嫡男・[[直江景明|景明]]に感状を貰おうと躍起になっていた執政・[[直江兼続]]を皮肉ったものであろう。}}なお、この感状は[[祐筆]]の書き間違いで、宛名が「'''杉原'''常陸介」となっていた。親憲はこれに気づいていたが、将軍家からの感状であるのでそのまま戴いて異議を申し上げず、その後は姓を「杉原」に改めている(読みは「すいばら」のままである)。
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])5月13日死去。享年71。嫡男の助市は11歳で夭逝していたため、外孫(婿の[[下条正親]]の次男)の憲胤が養子となって家督を相続した。