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{{ActorActress
| 芸名 = ジョセフ・フォン・スタンバーグ<br
| ふりがな = />Josef von Sternberg
| ふりがな =
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
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| 本名 = Jonas Sternberg
| 別名 =
| 出生地 = {{AUT1867}} [[ウィーン]]
| 死没地 = {{USA}} [[カリフォルニア州]][[ハリウッド]]
| 国籍 =
| 職業民族 =
| 血液型 =
| 生年 = 1894
| 生月 = 5
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| 没月 = 12
| 没日 = 12
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]
| 職業 =
| ジャンル =
| 活動期間 =
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| 公式サイト =
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}<!-- テンプレから引数を除去しないでください! -->
}}
 
'''ジョセフ・フォン・スタンバーグ'''('''Josef von Sternberg'''、[[1894年]][[5月29日]] - [[1969年]][[12月12日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]である。[[ドイツ語]]読みはヨーゼフ・フォン・シュテルンベルク。[[マルレーネ・ディートリッヒ]]とのコンビで有名。
 
== 来歴・人物 ==
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彼の父親は元陸軍の兵士で、ほとんど家庭を省みなかったという。7歳の時、家族と共に[[アメリカ合衆国|米国]]に移民、3年後ウィーンへ戻り、14歳で再び[[ニューヨーク]]へ帰る。ハイスクールを貧困のため中退、レース屋、婦人帽子屋、織物業者などを転々とする。本来は作家志望だったがアルバイトの映写係をきっかけに映画の世界へ転じる。
 
[[ハリウッド]]で、フィルム補修技師[[撮影技師|撮影助手]]、[[編集技師]]、[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]をつとめ、若い俳優ジョージ・K・アーサーに資金を調達してもらい、わずか35003,500ドルで『[[救ひを求むる人々]]』(1925)を作した。この映画は先輩[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]の[[自然主義]]の流れをくむが、渋い内容に映画会社は全く取り合わない。[[チャーリー・チャップリン]]邸で強引に持ち込んで見てもらい、当時チャップリンが創業者の一人であった[[ユナイテッド・アーティスツ]]が配給し上映した。チャップリンに目をつけたのは、彼が貧乏人に理解があると睨んだためであった。次に[[パラマウント映画]]でハリウッド・デビュー。意識してドイツ系の格式ばった姓の前置詞「フォン」を名乗り、ジョセフの綴りも意識してドイツ語にこだわる。[[ギャング]]の生活に哀愁を込めた米国映画最古のギャング映画と言われる『[[暗黒街]]』(1927)、社会の底辺に住んでいる人々の純情な恋模様を描いた『[[紐育の波止場]]』(1929)は両作品とも興業的に成功した。
[[File:Marlene Dietrich in Morocco trailer 3.jpg|thumb|left|200px|『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』のディートリッヒ。]][[File:Marlene Dietrich (26).jpg|thumb|left|200px|『[[上海特急|上海特急]]』のディートリッヒ。]]
 
映画は音の出る[[トーキー]]時代を迎え、[[ドイツ]]の大[[プロデューサー]]、[[エーリッヒ・ポマー]]は、ドイツ映画界最初のトーキー映画として『[[嘆きの天使]]』(1930)の監督に、ドイツ在住経験のあるスタンバーグに白羽の矢を立てた。世間知らずの真面目な高校教師([[エミール・ヤニングス]])が[[キャバレー]]のダンサーのローラローラ([[マルレーネ・ディートリッヒ]])の色香の虜になり、日参するが、学校を追われ、旅興行の道化役者となり、最後は捨てられた死体が高校の教室に転がる。スタンバーグを代表する傑作で、まさに退廃的な美貌と脚線美の新人の女優ディートリッヒと手を携えてハリウッドに戻った。
 
パラマウントは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]の[[グレタ・ガルボ]]に対抗すべく、切り札としてディートリッヒを売り出した。片道切符で砂漠に流れた酒場女を描いた『[[モロッコ (映画)|モロッコ]]』(1930)はスタンバーグとのコンビの名声を確実にした。その後戦争未亡人がスパイとして銃殺される『[[間諜X27]]』(1931)、動乱の中国に舞台を置いた『[[上海特急]]』(1932)、家庭と愛人との板挟み『[[ブロンド・ヴィナス]]』(1932)、女王の一代記『[[恋のページェント]]』(1934)。それぞれの作品では舞台も役柄も異なるがスタンバーグが独特の映像美の中にディートリッヒをいかに引き立たせることに専念していたことは誰の目にも明らかであった。このような監督と女優との結びつきは映画史上例を見なかった。『[[西班牙狂詩曲]]』(1935)を最後にスキャンダル化した愛も破れ(彼は別に生涯3回結婚と離婚を繰り返した)、このコンビは解消したのであった。『モロッコ』と『上海特急』で[[アカデミー監督賞]]にノミネートされている。
 
1930年代後半以降、会社との意見の相違も多く、作品は思うにまかせなかった。気力と精根を使い果たした彼は、名声を失い、急速に衰えてしまったのである。これは、まさに「ハリウッド」の神話の一つである。
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== 主な監督作品 ==
''[[:Category:ジョセフ・フォン・スタンバーグの監督映画]]''
 
*[[救ひを求むる人々]]-''The Salvation Hunters'' (1925) - 監督 /脚本 /撮影
*暗黒街 -''Underworld'' (1927)
*紐育の波止場 -''The Docks of New York'' (1928)
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*アメリカの悲劇 -''An American Tragedy'' (1931)
*[[間諜X27]]-''Dishonored'' (1931) 監督 /脚本
*[[上海特急]] -''Shanghai Express'' (1932)
*[[ブロンド・ヴィナス]] -''Blonde Venus'' (1932)
*スペイン狂想曲 -''The Devil Is a Woman'' (1934) - 監督 /製作 /撮影
*恋のページェント -''The Scarlet Empress'' (1934) - 監督 /脚本
*罪と罰 -''Crime and Punishment'' (1935)
*陽気な姫君 -''The King Steps Out'' (1936)
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== 外部リンク ==
*{{imdb|0903049|Josef von Sternberg}}
 
{{DEFAULTSORT:すたんはじょしよせふ ふおん}}
[[Category:アメリカ合衆国の映画監督]]
[[Category:ユダヤ系オーストリア人]]