「府兵制」の版間の差分

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'''府兵制'''(ふへいせい)[[中国]]にいて[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[西魏]]から[[唐]]代まで行われた兵制。もともとは軍府に属する兵という意味で、[[日本史]]で言えば[[衛士]]や[[防人]]の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという[[兵農一致]]の制度である。[[均田制]]と対をす兵制であり、均田制の崩壊と共に崩壊した。
 
==事前の経緯==
府兵制以前に行われていたのが[[兵戸制]]である。これは特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は[[魏 (三国)|魏]]の[[曹操]]が[[黄巾党]]の残党30万を配下に入れた青州兵である。その後、兵戸制は南朝・北朝に受け継がれ、南朝では文治重視をして武を軽視する考え方から兵戸の没落を招き、[[宋 (南朝)|宋]]代に崩壊していた。しかし北朝では[[鮮卑]]の持つ尚武的な気風から兵戸の地位は慨して高く比較して長い間保持されていた。[[北魏]]での兵戸は鎮と呼ばれ、特に首都[[平城]]を北の[[柔然]]から守る六鎮の地位は高く、領土の統治権も持っていた。
 
しかしその北魏でも[[孝文帝 (北魏)|孝文帝]]の漢化政策により、文治の思想が広まり、兵戸の地位は次第に下がり、更にそれまで領土の統治権も中央からの郡県に奪われ、その生活は郡県からの援助を持って成り立つようになった。特に首都が平城から[[洛陽]]に遷ったことで六鎮の地位は暴落し、これに不満を持った鎮の構成員たちは[[六鎮の乱]]を起こす。
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この府兵軍団を率いるのが全体の統括者で[[丞相]](大冢宰)でもある宇文泰であった。六柱国(宇文泰自身と西魏の宗室を含めて八柱国) - 十二大将軍 - 二十四開府という軍制になり、一つの開府に一軍があり、軍はいくつかの「団」によって構成され、儀同将軍、[[大都督]]、帥都督、[[都督]]といった指揮官が置かれた。郷兵部隊は、このような軍団組織に組み込まれ「府兵」と呼ばれた。「府兵」は、[[租庸調]]と労役を免除され、戦士として必要な馬や食糧は六軒の家が共同で負担した。胡族の人々にとってはかっての誇りをとりもどす方向になり、漢人の郷兵にとっても貴族制下の身分格差からの解放の意味があった。このように、栄誉ある自弁の戦士として自発的に軍に参加するという民衆の意識に支えられて「府兵制」は成立した。また、このことによって軍隊を抱えることによる国家財政の負担も軽減された。
 
この軍制の将軍である八柱国・十二大将軍は西魏とその後の[[北周]]にとっての有力者の家系とり、後の[[隋]]の楊氏は大将軍の唐の李氏は柱国の家系である。
 
==隋唐府兵制==
西魏から[[禅譲]]を受けた北周、更に北周から禅譲を受けた隋の時代に兵民籍の区別を廃止して一般民戸とし、唐がそれを受け継いだ。
 
唐にける府兵制は成人男子(21歳 - 59歳)を対象に3人に1人の割合で徴兵し、折衝府と呼ばれる部署に集められ、1年に1~1回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせた。
 
折衝府は全国に600が存在していた。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている。10人で1火、5火で1隊、4隊で1国となっており、それぞれの指揮官は火長・隊正・校尉・折衝都尉と呼んでいる。600×1000=60万が唐の兵力とことになる。もちろん防衛のための兵士であるから稼動兵力はこれを下回るので、遠征軍を編成するときには臨時に募兵が行われる。これは「行軍」と呼ばれ、府兵の諸物資が自前に拠ったのに対してこちらは官給であった。
 
==府兵制の崩壊==
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また府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は[[常備軍]]を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、[[羈縻支配|羈縻州]]に対して[[都護府]]が設置され、その下には募兵による行軍がいた。
 
[[儀鳳]]年間([[676年]] - [[678年]])に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する[[節度使]]が登場することになる。
 
そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。更に[[737年]]に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。