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{{Battlebox
| battle_name=ベルリンの戦い
| campaign=ベルリン攻防独ソ
|colour_scheme=background:#ffccaa
| image=[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R77767, Berlin, Rotarmisten Unter den Linden.jpg|300px|]]
| caption= 戦闘終結後、[[ウンター・デン・リンデン]]でソ連旗を掲げる[[赤ソ連]]の兵士達
| conflict=[[第二次世界大戦]]([[独ソ戦]]/[[大祖国戦争]])
| date=[[1945年]][[4月16日]] - 1945年[[5月82]]<ref name="syousai">ピーター・アンティル詳細 独ソ戦全史 <small>「史上最大世界地上」の実像場イラストレイテッド1 </small>』デビット・M・グラ ベルリツ、ジョナサン・M・ハウス共著の戦い 1945』三貴雅智 守屋純 P600、大日本絵画、pp.87f。</ref>
| place=[[ベルリン]]、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]
| result=ソ連軍の勝利
| combatant1='''{{flag|Nazi Germany|name=ドイツ}}'''
| combatant2='''{{flagicon|Soviet Union|1923}} [[ソビエト連邦|ソビエト連邦]]'''<br /> {{Flagicon|ポーランド}} [[ポーランド]]
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| commander2=[[ゲオルギー・ジューコフ]](第1白ロシア方面軍)<br />[[イワン・コーネフ]](第1ウクライナ方面軍)
| strength1=歩兵 1,000,000<br />戦車 1,500<br />航空機 3,300
| strength2=歩兵 2,062,100<ref name="syousai">デビット・M・グランツ、ジョナサン・M・ハウス共著『詳細 独ソ戦全史 <small>史上最大の地上戦の実像</small>』守屋純 訳 p.600</ref><br />戦車 6,250<br />航空機 7,500<br />砲兵 41,600
| casualties1=戦死 150,000~173,000<br />戦傷 200,000<br /> 捕虜 134,000<br />民間人死者 152,000
| casualties2=戦死・行方不明 81,116<br />戦傷 280,251<br />装甲車輌 1,997<br />大砲 2,108<br />航空機 917<br /><ref name="syousai"/>
|}}
'''ベルリンの戦い'''(ベルリンのたたかい)とは、[[第二次世界大戦]]末期、[[1945年]][[4月16日]]のソ連軍の[[ゼーロウ高地]]攻撃開始から、[[総統地下壕]]におけるヒトラーの自殺、[[ドイツ国会議事堂|国会議事堂]]の陥落、[[5月2日]]の[[ドイツ軍]]のベルリン防衛軍司令官[[ヘルムート・ヴァイトリング]]の降伏に至るまでベルリン周辺で展開されたソ連軍とドイツ軍の戦闘のことである。
 
== 戦いの背景 ==
1944年[[6月22日]]に開始された[[バグラチオン作戦]]と名付けられたソ連軍の夏季大攻勢の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。1945年[[1月20日]]ソ連軍は[[東プロイセン]]に侵入、初めてドイツ領内へ進撃した。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]はラジオ放送を通じて「ソ連軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは[[1月23日]]の会議で[[オーストリア]]とドイツの石油の80%を供給する[[ハンガリー]]の防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から[[第6SS装甲軍]]を抽出してハンガリーに派遣することを決定した([[春の目覚め作戦]])。しかし、この部隊は派遣先のハンガリーで壊滅した。
 
[[3月28日]]、ヒトラーはキュストリン橋頭堡の失陥をめぐって対立した[[ハインツ・グデーリアン]]を参謀総長から解任し、後任に[[ハンス・クレープス]]を任命した。首都ベルリンの運命はオーデル河戦線の[[ヴァイクセル軍集団]]隷下の[[第3装甲軍]]と[[第9軍 (ドイツ軍)|第9軍]]、[[中央軍集団]]隷下の[[第4装甲軍]]に委ねられた。しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でも実質は大隊規模という部隊や、[[国民擲弾兵]]や[[武装親衛隊|武装SS]]の外国人[[義勇兵]]など、急場の部隊で対応しなければならなかった。また、その急増部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多く、実質的な指揮官は叩き上げの軍人である[[ヘルムート・ヴァイトリング]]砲兵大将や[[ヴィルヘルム・モーンケ]][[親衛隊少将|SS少将]]らにゆだねられた。
 
== オーデル~ナイセ河の攻防 ==
{{main|オーデル・ナイセの戦い}}
{{main|ゼーロウ高地の戦い}}
1945年4月16日、ソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は、午前5時、[[オーデル川|オーデル河]]からゲオルギー・ジューコフ[[元帥]]率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140の[[サーチライト]]を照射し、渡河攻撃が行われた<ref>作戦の詳細は、ゲ・カ・ジューコフ『ジューコフ元帥回想録 革命★大戦★平和』清川勇吉・相場正三久・大沢正 共訳、[[朝日新聞社]]、pp.497-512を参照。</ref>しかし、この照射は、ドイツ軍の目を晦ますことが出来ず、逆にドイツ軍砲手のため、ソ連軍を照らし出してしまった。又、[[ヴァイクセル軍集団]]の司令官[[ゴットハルト・ハインリツィ]][[上級大将]]の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河したソ連軍は、[[ゼーロウ高地]]で[[テオドーア・ブッセ]][[大将]]率いる[[第9軍 (ドイツ軍)|ドイツ第9軍]]の頑強な抵抗にあい、攻撃は頓挫した<ref>[[コーネリアス・ライアン]]『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<[[ハヤカワ文庫]]>、pp.92-95,p.104。</ref>一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も、午前6時、[[ナイセ川|ナイセ河]]から攻撃を開始し、砲撃と[[煙幕]]の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは、[[第3親衛戦車軍]]([[:en:3rd Guards Tank Army (Soviet Union)|3rd Guards Tank Army]])に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、ppp.95-100。</ref>
 
[[4月17日]]、ジューコフはゼーロウ高地のドイツ軍防衛陣地を破り、18日早朝までに高地を占領し、[[ミュンヘベルク]] ([[:de:Müncheberg|Müncheberg]]) へ向け[[第8親衛軍]]([[:en:8th Guards Army (Soviet Union)|8th Guards Army]])と[[第1親衛戦車軍]]([[:en:1st Guards Tank Army (Soviet Union)|1st Guards Tank Army]])を進めた。しかし、[[ドイツ空軍]]の支援を受けたミュンヘベルク装甲師団<ref group="注釈">1945年[[3月5日]]に編成が発令された、クンマースドルフ戦車大隊1個からなる装甲師団。同師団は、1945年初頭、編成途中のままヴァイクセル軍集団に編入、ゼーロウ高地で戦い、その後、[[ベルリン市街戦]]に加わる。師団の最後の車輌は[[5月1日]]に撃破され、翌日、ソ連軍に降伏した(マクシム・コロミーエツ『1945年のドイツ国防軍戦車部隊』、小松徳仁 訳・高橋慶史 監修、大日本絵画、pp.78-79)79)。</ref>が、これ等のソ連軍を叩き、大損害を与えた。だが、19日にはドイツ第9軍の戦線は突破され、第CI軍団は北へ、[[第LVI装甲軍団]]([[:en:LVI Panzer Corps|LVI Panzer Corps]])はベルリンに、SS第IX装甲軍団とSS第V山岳軍団、フランクフルト・アン・デア・オーデル守備隊はブッセ直接指揮のもと、南へ後退した<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.53。</ref>
 
== ベルリンからの脱出 ==
=== ナチス高官のベルリン脱出 ===
4月20日、ヒトラーの誕生日を祝うために、軍高官、およびナチス高官が[[総統官邸]]に集まった。この日開催された軍事会議で、[[アメリカ軍]]とソ連軍が[[エルベ川|エルベ河]]で合流した場合に備え、ドイツ北部を[[カール・デーニッツ]]元帥が指揮<!--し、南部はおそらく[[アルベルト・ケッセルリンク]]元帥が指揮-->することとなった。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まった。会議が終わると、政府の大部分はベルリンを立ち退き、[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[エーリヒ・レーダー]]等も立ち去っていった<ref name="Ryan-1">コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.157-161。</ref>
 
一方、ベルリン防衛司令官[[ヘルムート・ライマン]][[中将]]の事務室には、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の役員が口実を設け、首都立ち退きの許可証を求め集まってきた。ベルリン防衛責任者の[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告しておりいたが、ベルリン防衛司令部の許可証が無ければベルリンを退去することができなかったためであった<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳 白水社 P399</ref>。結局、ベルリン防衛司令官[[ヘルムート・ライマン]]中将は、彼等に2000枚以上の許可証を発行した<ref name="Ryan-1" />
 
=== 日本の要請 ===
[[4月15日]]、ドイツの崩壊を見越し[[東京]]の[[海軍軍令部]]はベルリン脱出寸前の[[阿部勝雄]]中将宛に緊急電報を発信し、「残存する[[Uボート]]をできるだけ多く[[日本]]に回航するよう[[ドイツ海軍]]に要請し、その実現に努力せよ。」との指令を行った。この要請に海軍総司令官デーニッツ元帥は、燃料不足を理由に拒絶の意を示した。しかし、指令を果たすために、阿部はその後、[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]][[外務大臣|外相]]と折衝を行い再度交渉を行ったが、デーニッツからは要望には応じられない旨、[[4月20日]]に最終的な回答を受けた。その日、阿部は総統官邸に赴き、ヒトラーの誕生を祝う記帳を行った後、デーニッツからの最終回答とベルリンから脱出する旨打電し、ベルリン包囲網が閉じる寸前に、[[ハンブルク]]方面へ脱出した<ref>吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.332-337。</ref>
 
== ベルリンの包囲 ==
[[Image:Russian artillery fire in Berlin.jpg|250px|thumb|left|[[カチューシャ・ロケット]]でベルリンを砲撃するソ連軍]]
4月20日、コーネフは、さしたる抵抗を受けることも無く、バルートを陥落させドイツ[[陸軍総司令部]]のあるツオッセンに達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第LVI装甲軍団の抵抗もあり、思うように進撃できていなかったが、21日には、第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼーに突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と[[第4親衛戦車軍]]がテルトウ運河に到達し、23日には、ベルリン郊外市街地へ突入を始める<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、pp.40-48,p.55。</ref>
 
翌24日、第LVI装甲軍団の司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が急遽ベルリン防衛軍司令官に任ぜられ<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.209-217。</ref><ref group="注釈">ヴァイトリングが、ベルリン防衛軍司令官の任命されたのは24日であったが、前日の4月23日よりベルリン東地区と南東地区の指揮を担当していた(H。(H・エーベルレ『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4、p.396)。また、高橋慶史によれば25日となっている(高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』p.309)396)。</ref>、率いる残余部隊をベルリン市街の各所に配置した。政府機関に近い[[ベルリン中央駅|アンハルター駅]]付近に[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント]]、総統官邸付近はヴィルヘルム・モーンケSS少将が率いる[[武装親衛隊]]、ヴィスマースドルフ付近にはミュンヘベルク装甲師団、ヴァンゼー、ポツダム、グリューネヴァルト、ハーレンゼー方面には第20装甲擲弾兵師団、フリードリヒ・シュトラーセ駅付近に第9降下猟兵師団が配置、第18装甲擲弾兵師団が予備とされた。しかし、どの師団も定数を下回る寄せ集めであり、50万人近いソ連軍の前に包囲網は狭まっていった。
 
4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍は[[ポツダム]]郊外へ達し、ベルリンは包囲された<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.55,p.56。</ref>
 
== ベルリン市街戦 ==
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[[Image:GermanPOW19452.jpg|thumb|250px|防衛の為に徴兵された少年兵]]
 
4月初頭のベルリンではソ連軍がいつ攻め込んでくるか解らぬ状況で、市内は熱射病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。[[ナチ党]]員は降伏すれば処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くのソビエト赤軍将兵を道連れにする事を考えていた。ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたためドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.275。</ref>。
 
ソ連軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くはベルリン市内の[[ティーアガルテン]]、フンボルトハイン公園、フリードリヒスハイン公園の3箇所に建てられた[[高射砲塔]](通称「G塔」)をはじめ、軍が構築したコンクリート製の大型防空壕や、地下鉄の駅構内、下水道、個人宅の庭に掘った防空壕、個人宅の地下室など、身を潜められる所にはどこでも避難したが、動くことすらままならず水道も断水され衛生状況は悪かった。
 
そのうち送電が断たれたためラジオ放送すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐ[[アメリカ]]が救援のために味方してくれるなどのとかいった信憑性に乏しい噂が流れた。
戦争の終盤になってもナチスの[[国民啓蒙・宣伝省|宣伝省]]は相変わらず愛国の為に徹底抗戦を訴える[[プロパガンダ]]を放送していたが、多くの市民にとってはそんな事は既にどうでもよい事柄で、生き残ることだけを考えていた。白旗を掲げる家ではSSに狙撃され、何もしなければソビエト赤将兵に殺される状態ありもはや助かる道は米軍に降伏する以外になかった<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.424。</ref>。
 
戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵で一杯になった。医薬品も麻酔薬も不足していた為、負傷兵は傷を負ったまま放置された。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていた。既に戦闘不可能な負傷兵が集う場所も砲撃に晒された為、ある野戦病院では女性の[[看護師]]がシーツと口紅で[[赤十字]]の旗を作って掲げたが、ソ連の砲撃が止む事はなかった。生き残ったドイツ人は「ベルリンは地獄と化していた」と記している<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、森林戦。</ref>。
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=== ヒトラーの自殺 ===
{{main|アドルフ・ヒトラーの死}}
[[4月29日]]、[[親衛隊全国指導者|親衛隊長官]][[ハインリヒ・ヒムラー]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|西側連合国]]に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行い、遺書政府の管理を大統領中ではデーニッツを大統領にと、首相のゲッベルスを首相それぞれ任命して政府の管理を委ねることになっていた。そして、ヒトラーは[[エヴァ・ブラウン]]と結婚した<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.277-279。</ref>
 
翌30日の15時20分、ヒトラーとエヴァは、総統地下壕の居間で自殺した。遺骸は官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた<ref>ピーター・アンティル『世界の戦場イラストレイテッド1  ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.83。</ref>
 
=== ベルリンの無条件降伏 ===
ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、[[参謀総長]][[ハンス・クレープス]]大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊による赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、ベルリンの守備隊は降伏した<ref>V・K・ヴィノグラードフ,Ya・F・ポゴーニィ,N・V・チェプツォフ 編『KGB秘調書 ヒトラー最後の真実』 佐々木洋子,貝澤哉,鴻英奈 訳、光文社、2001年、ISBN 4-334-96113-4、pp.409-412。</ref>。
 
ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、[[参謀総長]][[ハンス・クレープス]]大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、ソ連軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊によるソ連軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、ベルリンの守備隊は降伏した<ref>V・K・ヴィノグラードフ,Ya・F・ポゴーニィ,N・V・チェプツォフ 編『KGB秘調書 ヒトラー最後の真実』 佐々木洋子,貝澤哉,鴻英奈 訳、光文社、2001年、ISBN 4-334-96113-4、pp.409-412。</ref>
尚、ゲッベルスは赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.85。</ref>。
 
尚、ゲッベルスはソ連軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.85。</ref>
 
== 終焉 ==
[[画像:ElbeDay1945 (NARA ww2-121).jpg|thumb|250px|1945年4月25日、エルベ川で合流した米軍とソ連軍の兵士が平和を誓い合った。]]
=== ドイツ無条件降伏 ===
ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、[[5月1日]]にヒトラーの後継者として大統領に指名されたカール・デーニッツ提督の隷下にあった。彼は、[[5月6日]]に全権委任した[[アルフレート・ヨードル]]を[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の連合軍最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]の司令部に派遣、ソ連軍に包囲されたバルト海沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を[[5月9日]]零時として[[5月7日]]にドイツ国防軍全軍の[[無条件降伏]]文書に署名した。それでも多くの避難民はソ連軍の手に落ち、悲劇的な運命をたどることになった。
 
== 余波 ==
=== ドイツ人への報復 ===
ソ連軍の報復は苛烈を極め、女性の多くがソビエト赤により[[強姦]]され、数多くの市民が自決した。ゲルハルト・ライヒリング博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人がソ連軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が[[性行為感染症|性病]]に罹ったとされている。レイプされた女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。
これはベルリンに限ったことではなく、ソ連軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった<ref>ヘルケ・ザンダー / バーバラ・ヨール『1945年・ベルリン解放の真実 <small>戦争・強姦・子ども</small>』寺崎あき子・伊藤明子 訳、現代書館、1996年、ISBN 4-7684-7772-0 pp.66-76。</ref>。ソ連の作家[[イリヤ・エレンブルク]]は1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!とソ連軍兵士を煽った」と非難されたことを記している<ref>イリヤ・エレンブルク『わが回想 <small>人間・歳月・生活</small>』第五部、木村浩 訳、朝日新聞社、1969年、 pp.33-44。</ref>。
 
また、ソ連は戦利品部隊を占領下ドイツに送り込み、ベルリンの[[ムゼウムスインゼル|博物館島]]や、ドイツ各地の博物館、美術館、個人収集品から250万点にも及ぶ絵画、彫刻等の美術品を戦利品として劫掠した。[[ハインリヒ・シュリーマン]]発見した「[[イリオス|トロイア]]の黄金」も劫掠された一つである。この内、約100万点は今なおドイツに返還されていない<ref>コンスタンチン・アキンシャ & グリゴリイ・コズロフ 著/木原武一 訳『消えた略奪美術品』、[[新潮社]]、1997年、ISBN 4-10-535201-6。</ref>。
 
=== 在留邦人の運命 ===
当時、ベルリンには新兵器技術を研修・習得するために多くの民間人技術者や技術将校が所属する陸軍武官事務所や海軍武官事務所があった。[[大倉商事]]、[[三菱商事]]の商社関係者、芸術家、留学生などおよそ400名の日本人が在住していた。民間人の多くはベルリン郊外に避難した。ベルリンの南西80km の[[マールスドルフ]]([[:de:Berlin-Mahlsdorf|Mahlsdorf]])にある城に120名の日本人が篭城した。このような避難所は他にも数ヵ所あった。
 
4月13日、ドイツの航空機体調査を担当している海軍武官事務所の永盛義夫技術中佐、樽谷由吉技術大尉は車でベルリンを離れ、ペーネミュンデ南方のロストックにある[[ハインケル]]社の工場で、ジェット機の技術資料を入手し、4月末まで同地に留まった後、[[中立国]][[スウェーデン]]へ脱出した。翌4月14日、駐独ドイツ大使の[[大島浩]]以下外務省関係者と大使館付武官も、自動車11台に分乗し、ベルリンを離れ、オーストリアの[[バート・ガンシュタイン]]([[:de:Bad Gastein|Bad Gastein]])へ避難した<ref>吉村昭『深海の使者』、文藝春秋<文春文庫>、pp.330-331。</ref>。
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group= "注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
 
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* 『ブリキの太鼓』: [[ギュンター・グラス]]原作、[[フォルカー・シェレンドルフ]]([[:de:Volker Schlöndorff|Volker Schlöndorff]])監督、(1979年、ドイツ)
* 『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』: ''Der Untergang''(2004年、ドイツ)
* 『ベルリン終戦日記 ある女性の記録』: ''Anonyma - Eine Frau In Berlin''(2008年、ドイツ)
 
{{commons|Category:Battle of Berlin|ベルリンの戦い}}
{{Campaignbox-bottom|独ソベルリン攻防戦}}
 
{{DEFAULTSORT:へるりんのたたかい}}
[[Category:1945年]]
[[Category:第二次世界大戦の作戦と戦い]]
[[Category:独ソ戦]]
[[Category:ベルリンの歴史]]