「モニカ・セレシュ」の版間の差分

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|選手名(日本語)=モニカ・セレシュ
|写真=Monica Seles Canadian Open.jpg
|写真サイズ=200px
|写真のコメント=モニカ・セレシュのサービス
|選手名(英語)=Monica Seles
|フルネーム(英語名)=
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|全米オープンダブルス=ベスト8(1999)
|ダブルス優勝回数=
|全豪オープン混合ダブルス=
|全仏オープン混合ダブルス=
|ウィンブルドン混合ダブルス=
|全米オープン混合ダブルス=
|混合ダブルス優勝回数=
|シングルス最高=1位
|ダブルス最高=16位
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左利きだが、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、そこから繰り出される強烈なショットを最大の持ち味とした。[[女子テニス協会|WTA]]ツアーで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。
 
[[1989年]]に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ヒューストン]]の大会で[[クリス・エバート]]を決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、[[WTA]]ツアー初優勝を飾る。その年初出場した[[1989年全仏オープンテニス|全仏オープン]]でいきなり準決勝進出を果たし、初対戦の[[シュテフィ・グラフ]]に 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌[[1990年]]の[[1990年全仏オープンテニス|全仏オープン]]では、決勝でシュテフィ・グラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時の4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も[[全仏オープン]]女子シングルスの大会最年少優勝記録である。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルスの最年少優勝記録は、[[1997年全豪オープンテニス|1997年全豪オープン]]に「16歳3ヶ月」で優勝した[[マルチナ・ヒンギス]]によって破られた。)[[1991年]][[3月11日]]には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-[[1992年全仏オープンテニス|1992年]]に[[全仏オープン]]3連覇、[[1991年全豪オープンテニス|1991年]]-[[1993年全豪オープンテニス|1993年]]に[[全豪オープン]]3連覇、[[1991年全米オープンテニス|1991年]]と[[1992年全米オープンテニス|1992年]]に[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]2連覇を達成するなど、1990年から[[1993年]]の4月までは彼女の絶頂期であった。
 
しかし[[1993年]][[4月30日]]、セレシュは[[ドイツ]]・[[ハンブルク]]の「シチズンカップ」準々決勝で[[ブルガリア]]の[[マグダレナ・マレーバ]]との対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。<!--これが最も重要なポイント-->セレシュはこの後遺症により([[心的外傷後ストレス障害|PTSD]]と考えられる)、2年以上試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュをけがさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の[[1994年]]3月、モニカ・セレシュは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。[[2001年]]に女子ツアー年間最終戦の[[WTAツアー選手権]]がアメリカ・[[ニューヨーク]]からドイツ・[[ミュンヘン]]に開催地を移転した時も、前年の[[2000年]]から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。)
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[[1995年]]8月、セレシュはようやく[[カナダ・マスターズ|カナダオープン]]で復帰を果たす。その準決勝では[[ガブリエラ・サバティーニ]]、決勝で[[アマンダ・クッツァー]]を破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の[[1995年全米オープンテニス|全米オープン]]では第2シードで出場。決勝ではライバルの[[シュテフィ・グラフ]]に 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌[[1996年]]、セレシュは[[1996年全豪オープンテニス|全豪オープン]]で復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルス通算9勝は、[[モーリーン・コノリー]]と並ぶ女子歴代8位タイ記録である。
 
その後はけがによる不振や、[[マルチナ・ヒンギス]]、[[ビーナス・ウィリアムズ|ビーナス]]と[[セリーナ・ウィリアムズ|セリーナ]]のウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは[[1998年全仏オープンテニス|1998年全仏オープン]]であった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードの[[マルチナ・ヒンギス]]を破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では[[1996年全米オープンテニス|1996年全米オープン]]以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗の[[アランチャ・サンチェス]]であり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これが彼女の最後の4大大会決勝戦になる。これはまた、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合でもあった。
[[2003年]]の[[2003年全仏オープンテニス|全仏オープン]]1回戦で[[ナディア・ペトロワ]]([[ロシア]])に敗退したのが、セレシュの最後の公式戦出場になる。その後は足の故障により、公式戦復帰への手がかりをつかむことができなかった。[[2005年]]12月には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と語り、近いうちの引退を示唆するコメントを発表した。最後の公式戦出場から5年後、セレシュは[[2008年]]2月14日(日本時間15日)に正式な現役引退を表明した。この引退発表と前後する同年1月にはウィンブルドン選手権の放映権獲得などテニス番組の拡充に力を入れる[[WOWOW]]と契約を結び「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始。3月には来日を果たし、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った<ref>{{cite web|url=http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/03/10/seles/index.html|title=【レポート】モニカ・セレス来日 - テニス4大会の魅力と錦織圭への期待を語る|date=2008年3月10日|accessyear=2009年|accessdate=6月4日|author=マイコミジャーナル}}</ref>
 
現役引退表明と前後する2008年1月、セレシュはテニス番組の拡充に力を入れている[[WOWOW]]と契約を結び、「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始した。3月に来日し、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った<ref>{{Cite web|date=2008-03-10|url=http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/03/10/seles/index.html|title=モニカ・セレス来日 - テニス4大会の魅力と錦織圭への期待を語る|publisher=マイコミジャーナル|accessdate=2009-06-04}}</ref>。さらに[[ローレウス世界スポーツ賞|ローレウス・スポーツ賞]]のアカデミー選考委員にも加わり、多彩な活動を繰り広げている<ref>{{Cite web|date=2010-02-10|url=http://www.laureus.com/members/176|title=Laureus Academy Member|publisher=Laureus.com|accessdate=2010-02-10}}</ref>。
[[2009年]]1月16日、モニカ・セレシュの[[国際テニス殿堂]]入りが決定した。殿堂入り式典は7月11日に行われる。
 
[[2009年]]7月11日、モニカ・セレシュは[[アンドレス・ヒメノ]]([[スペイン]])らとともに[[国際テニス殿堂]]入りを果たした。
 
著書に『私は負けない』([[1996年]]刊行、原題:“''From Fear to Victory''”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:2勝(1991年&1992年) [復帰後の1995年&1996年、2年連続準優勝]
: ([[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]準優勝1度:1992年)
 
 
{| class="wikitable"
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!年!!大会!!対戦相手!!試合結果
|-style="background: #FC9;"
| [[1990年]] || [[1990年全仏オープンテニス|全仏オープン]] || {{flagicon|GERFRG}} [[シュテフィ・グラフ]] || 7-6, 6-4
|-style="background: #CFF;"
| [[1991年]] || [[1991年全豪オープンテニス|全豪オープン]] || {{flagicon|CZECSK}} [[ヤナ・ノボトナ]] || 5-7, 6-3, 6-1
|-style="background: #FC9;"
| [[1991年]] || [[1991年全仏オープンテニス|全仏オープン]] || {{flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス]] || 6-3, 6-4
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== 外部リンク ==
* {{WTA|id=7354|name=モニカ・セレシュ}}
* {{Fed Cup|20001353|モニカ・セレシュ}}
* [http://www.wowow.co.jp/tennis/top_seles-column.html WOWOWの連載コラムページ]
* {{ITHF|249|モニカ・セレシュ}}
 
{{テニス女子世界ランキング1位}}
{{全豪オープン女子シングルス優勝者}}
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[[Category:ユーゴスラビアのテニス選手]]
[[Category:セルビアのテニス選手]]
[[Category:アメリカ合衆国の女子テニス選手]]
[[Category:オリンピックテニスアメリカ合衆国代表選手]]
[[Category:アメリカ合衆国のオリンピック銅メダリスト]]
[[Category:女子テニス選手]]
[[Category:国際テニス殿堂入りの人物]]
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]
[[Category:1973年生]]
[[Category:存命人物]]
__NOTOC__
 
[[ar:مونيكا سيليش]]