「シャナナ・グスマン」の版間の差分

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1975年11月28日、フレティリンは東ティモールの独立を宣言した。 しかし、東ティモールは数日後にインドネシアに侵略されインドネシアの一州として事実上併合された。 グスマンはインドネシアに対する抵抗運動に参加し、村々を回ってフレティリンへの支援と兵士の勧誘を行った。 しかし1980年代早期にフレティリンが幾度かの手痛い敗北を喫すると、グスマンはフレティリンを離れ、様々な中道的団体を支援することとなった。 これによって1980年代半ばにはグスマンはフレティリンの主たる対抗勢力のリーダーとなっていた。
 
1990年代始めには国外交渉とメディア対応に深く関わるようになり、1991年11月12日に[[サンタクルス事件|サンタクルス虐殺事件]] ([[:en:Santa Cruz massacre|Santa Cruz massacre]]) が起きると、多くの主要メディアのインタビューを受け世界の注意を喚起した。 一方で注目の度合いが高まるとともに、グスマンはインドネシア政府の主要な標的と目されることになった。 インドネシアによるグスマンを捕らえる軍事作戦は最終的に1992年11月に成功し、裁判の末、グスマンは反乱・銃器不法所持・分離運動の罪で終身刑を宣告された (1997年に20年に減刑)<ref name="amnesty">{{cite web|url=http://www.amnesty.org/en/library/asset/ASA21/058/1997/en/ccbaeb5a-e9e4-11dd-90b2-a9da8ab8e550/asa210581997en.html|title=Indonesia: Xanana Gusmao &mdash; A Briefing (AI Index: ASA 21/058/1997)|work=Amnesty International|date=1997-08|accessdate=2009-12-20}}</ref>。 グスマンはなお刑務所内から抵抗運動を続け、服役中、国連代表や[[ネルソン・マンデラ]]などの要人の訪問を度々受けた<ref name="amnesty" />。
 
[[スハルト]]体制終焉後の1999年8月30日、東ティモールで国民投票が行われ圧倒的多数が独立を選択した。 インドネシア軍はこの結果を受けて組織的な破壊工作を開始したが、国際的圧力の結果、[[東ティモール多国籍軍]] ([[:en:International Force for East Timor|INTERFET]]) が駐留するに至った。 その後グスマンも釈放され、2002年まで続いた国連暫定行政機構の高官に指名された。 この間、グスマンは東ティモールの統一と和平を訴え続け、一般的にも新しい国家の事実上のリーダーとみなされた。 2001年末に行われた選挙ではフレティリンを除く 9 つの政党から支持を受けて、[[2002年]][[5月20日]]に正式に独立した東ティモールの初代大統領に選ばれた。一方、初代首相には第一党であったフレティリンのマリ・アルカティリが就任した。