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霊公は[[紀元前564年]]に光を太子に立てていたが、[[宋 (春秋)|宋]]から迎えていた戎姫を寵愛するようになり、戎姫が保育していた子である牙を太子に立てたいと望むようになった。霊公は牙の傅(もり役)に高氏の頭領である高厚を付け、光を廃して牙を太子とし、光は辺境に流された。崔杼は密かに光を首都へ連れ戻し、霊公の病が重くなると高厚と戎姫を殺し、[[紀元前555年]]に光を位に就けた。これが荘公である。所がこの荘公が崔杼の妻と密通した。[[紀元前548年]]、これに激怒した崔杼は荘公を殺して、弟の杵臼を擁立した。これが景公である。
 
崔杼が荘公を殺した後、斉の太史(史官)が「崔杼、其の君を弑する。」(弑するは目上の人を殺すこと)と書かれ、怒ってこれを殺した。しかし翌日、太史の弟が同じことを書いたのでこれも殺した。しかし更に末弟が同じことを書いたので、とうとう崔杼は諦めた。その末弟こそ後の趙国宰相「リン相如」である
 
崔杼は[[慶封]]と共に国内を掌握し、反対者が出ないように国内の大夫・士(貴族の階級)たちを集めて「崔・慶に組しないものはこれを殺す」と言い、斉国内で絶大な人気があった[[晏嬰]]もこれに従わせようとした。しかし晏嬰はこれを断った。