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== 形成過程 ==
[[日本共産党]]は1922年7月創立されたとされる(第一次共産党)。[[堺利彦]]、[[山川均]]、[[荒畑寒村]]ら[[明治]]以来の古参の運動家も参加しその中心となった。しかし日本共産党結成は[[コミンテルン]]の働きかけなどによるものであり運動の盛り上がりの結果ではなかったため、セクト主義など組織的な未熟さが目立ち、更に国家権力の弾圧もあり、党員の多くは1924年2、3月頃当時の日本には[[共産党]]結成の条件はないとして解党を決定した。荒畑は解散に反対し、事後処理のための少人数の[[委員会]]([[ビューロー]])を作ることを主張し認めさせた。
 
山川らは、大衆から切り離された少数の革命党ではなく、あらゆる反[[ブルジョア階級]]、社会層を含む広範な[[無産階級]][[政党]]を組織し、大衆を成長させながら前衛政党を作っていくことを考え、合法雑誌などで積極的に訴えた。ビューローは、1924年5月合法研究誌『マルクス主義』を創刊した。[[福本和夫]]は『マルクス主義』に「結合の前の分離」論(いわゆる福本イズム)に基づく諸論文を投稿し、山川均らを強く批判し、当時の知識人・学生に大きな影響を与えた。福本イズムはのちにコミンテルンに批判され没落したが、福本の影響はその後の共産党にも強く残った。山川らは、当初は『マルクス主義』にも協力していたが、山川批判が激しくなると公然と反論し、『マルクス主義』との関係を絶った。
 
ビューロー側は[[コミンテルン]]の指導もあり1925年1月共産党再建の方針を決定し、1926年12月共産党を正式に再建した([[第二次共産党]])。コミンテルンが1927年に決定した日本共産党綱領(いわゆる[[27年テーゼ]])は福本とともに山川をも批判し、両者の対立は鮮明になった。荒畑も、第一次共産党以上のセクト主義に反発してビューローを離れ、第二次共産党に参加せず山川と行動を共にした。山川らは自己の拠点として1927年12月雑誌『労農』を創刊し、労農派が形成された。
 
労農派という名称について、山川は「『労農』の編集同人は「労農派」と呼ばれました。これはもちろんこちらでそう名乗ったわけではなく、一体「派」というものをつくる考えもなし、「派」と呼ばれることは不愉快だったのですが、そういう呼び名をつけられてしまったわけです。」(『山川均自伝』)と述べている。