「山中幸満」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
 
家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の[[山中勝重]]がまだ若い為、[[月山富田城]]奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主[[尼子経久]]は[[富田城]]に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。{{要出典範囲|永正3年5月3日に没した。}}法名は乗雲である。
 
== 山中氏のルーツ ==
後世の創作物である尼子文限帳から確認するに、山中幸盛が中老衆として尼子氏に仕えていたと表記されている。しかし、当時の一次史料である竹生島奉加帳では、一番下段に山中三郎兵衛なるものが表記されており、同年代には山中幸盛が産まれていないことからも、山中家の地位は低かったようである。
 
 
また、佐々木文書にも山中家始祖の山中幸久の存在は無く宇多源氏ではなく橘姓近江山中氏が尼子氏下向時に一緒に下向したと思われる。
 
よって山中幸満の存在は創作とみるのが妥当だろう。
 
== 参考文献 ==
匿名利用者