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急行列車が電車化された際には、半室食堂車のビュフェとして連結した。ビュフェでは調理設備が食堂車に比べて簡略化されており運営人員も少ないことから、本格的な調理を行なうことは少なく比較的簡単に労力をかけずに調理できる[[軽食]]や[[飲料]]、調理済みの[[冷凍食品]]や冷蔵食品を[[電子レンジ]]で再加熱して利用者に供するのみとした。[[国鉄153系電車|サハシ153形]]による[[東海道本線優等列車沿革|東海道本線急行列車群]]では[[寿司]]を、以降[[国鉄165系電車|サハシ165・169形]]、[[国鉄457系電車|サハシ451・455形]]による[[東北本線優等列車沿革|東北本線急行列車群]]・[[あさま#|信越本線急行列車群]]などでは[[蕎麦|そば]]・[[うどん]]や[[丼物]]を供していた<ref>これらはあくまで各列車におけるメニューの中核をなすものであり、列車・運転時期によって多少異なるがそれ以外の料理も提供されていた</ref> 。なお寿司営業は、山陽線転出後に職人の確保が困難となり、次第に営業休止となり[[1972年]]3月全ての寿司営業が中止されるとともにサハシ153形の営業列車はなくなった。
 
営業面では戦後、[[1949年]]の東海道本線の特急列車運転を契機に復活した食堂車では[[日本食堂]](現・[[日本レストランエンタプライズ]]&lt;NRE&gt;)1)の1体制であっが担当したが独占批判を受け復活後数[[1953後には]]より特急「つばめ」の食堂車を[[帝国ホテル]]が担当<ref>営業開始を前に、乗務員をホテル内から募集したところ、30名程度の募集に対して、300名以上の応募者があったという。</ref>したほか、[[都ホテルズ&リゾーツ|都ホテル]]・新大阪ホテル(現・[[リーガロイヤルホテル]])の参入に始まり、続いて[[鉄道弘済会]]や[[上越線]]列車で営業した[[聚楽]](大日本食堂 → 現・[[聚楽ティエスエス]])も参入。さらに[[1970年代]]には鉄道弘済会系の大鉄車販・金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)・中国車販・九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども短期ではあるが在来線急行ビュフェ営業に参入しその食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。
 
しかし、在来線においては[[1970年代]]以降は食堂車の営業休止もしくは不連結となるケースが多くなった。これには以下のような理由がある。
# 1972年に発生した[[北陸トンネル火災事故]]の出火原因が、当初は食堂車の[[焜炉#石炭コンロ・かまど|石炭コンロ]]とされたため<ref>後の検証で出火原因は電気暖房関連の電気配線からの漏電によるものと判明。</ref>、裸火を使っての調理が禁止となり電熱式のレンジを持たない旧型食堂車は必然的に使用できなくなった。
# 国鉄の財政難により、旧型客車を廃止する代わりの車両の製作が予算的に困難になった。
# 国鉄の合理化および労使間の抗争により[[サービス]]が低下した。
# 食堂事業者の人員確保が難しくなった。
#* 労働条件が通常の[[食堂]]と異なり、「常に揺れる」・「厨房が狭い」・「専門化されアラカルトメニューの豊富さをまかなえない」などの特殊性があるが、事業者側も利用率の減少によりそれに対するノウハウを伝える様な教育制度を採用しなかったという面もある。
#*また、相次ぐ特急列車増発により食堂車営業列車が急激に増えてしまい、人員面に余裕が無いことから特急と急行が並存していた線区では特急列車の食堂営業のみに絞る傾向も強まった。
# 通常の飲食店と異なり利用客が限られることによる回転の悪化。更に自由席代わりにビールやコーヒー一杯で長時間占領するマナーの悪い乗客も目立ってきた。
# 昼行特急列車の増発並びに新幹線との連携、さらには長距離移動での航空機利用の一般化により夜行列車の需要が長距離であっても減退してきたことにより、夜行列車自体の運行区間の短縮及び効率化を図るために相対的なサービス低下を余儀なくされた。
# 新幹線を含む昼行特急列車の増発による特急列車の一般化やスピードアップなどで乗車時間が短縮され、比較的高価である食堂車での食事を摂る必要性が減少した。
# 特に[[1990年代]]以降になると、[[コンビニエンスストア]]などにおける[[弁当]]販売の普及などにより、食習慣の変化などから食堂車の利用率が低下した。また、コンビニエンスストアの弁当は食堂車のメニューや[[駅弁]]と比べ廉価であることから大きな影響を及ぼした。<!--その悪弊は-->このことは、現在でも[[車内販売]]や駅弁業者の撤退に引き継ぐ形にまで影響する。
 
# 価格の割にメニューが貧弱で、コストパフォーマンスに欠けていたため。[[1980年]]頃からは電子レンジで加熱しただけの料理が多く、中には[[牛丼]]や[[たこ焼き]]などファストフード並みのメニューまで登場していた。フルコースもしくは定食が当たり前であった戦前では考えられないような簡易なメニューでは乗客の支持を得ることはできなかった。また、メニューも画一化されており、沿線の名物料理や郷土料理など乗客に地域性をアピールできるメニューはほとんどなかった。
 
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在来線では、ビュフェ車連結の電車急行列車では[[1976年]]1211月に[[中央本線|中央東線]]の「[[あずさ (列車)|アルプス]]」、[[信越本線]]の「信州」・「妙高」を最後に、食堂車連結の昼行特急列車は[[1986年]][[オホーツク (列車)|「おおとり」・「オホーツク」]]を最後に連結が中止され、[[国鉄分割民営化|分割民営化]]後は一部の長距離[[寝台列車]]に残るのみとなった。
 
JR化後、東京 - 九州間の[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]](いわゆる「[[ブルートレイン (日本)|九州ブルトレ]]」)では<!--「JR化後に食堂営業を継続し、一定の人気もあていたが、乗車率の良くない一部の列車(「みずほことはかったと思ど)につます。「食堂営業を行っいないが」-->堂車の厨房や[[ラウンジカー]]の売店設備内容利用見直て温かい料理を提供する売店営業<ref>形式的にビュフェに類似して営業すが、ビュッフェとは違い内販売の補助的なサービスで、どちらかというとも出現した。「[[あさま|白山]]」や「[[雷鳥 (列車)|スーパー雷鳥]]」に連結されたラウンジに付随車では、カレーライス類などの軽食を[[電子レンジ]]で暖めて販売する、実質的なビュフェ車としていた「コンビニエンスカー」に近い。</ref>があっの営業を行う列車も存在した。
 
*[[1990年]]3月の改正で東京~[[下関駅|下関]]間の「あさかぜ3号・2号」にラウンジカーが登場した際に、サービスカウンターで[[鰻丼|うなぎ御飯]]・[[カレーライス]]・[[牛丼]]・[[焼そば]]・[[たこ焼き]]・[[シュウマイ]]など温かい料理を提供した。
 
しかし、この頃より九州・山陰方面夜行列車の食堂車の利用客が減少してゆき、[[1991年]]6月1日で「[[はやぶさ (列車)|みずほ]]」・「[[出雲 (列車)|出雲]]1号・4号」の食堂車営業が終了となった。但し食堂車は引き続き連結され、日本食堂の従業員が乗り込んで、電気レンジ以外の設備を利用して暖かい食事の提供を開始した。そして、[[1993年]]3月の改正で、残りの各列車の食堂車営業が終了する事となり、売店営業に移行した。これにより、夜行列車からは、従来型の食堂営業が姿を消す事となった。
 
以後の九州方面夜行列車の売店営業の推移は以下のとおり。
 
*[[1990年]]3月の改正で東京~[[下関駅|下関]]間の「あさかぜ3号・2号」にラウンジカーが登場した際に[[鰻丼|うなぎ御飯]]・[[カレーライス]]・[[牛丼]]・[[焼そば]]・[[たこ焼き]]・[[シュウマイ]]など温かい料理を提供した。
*[[1991年]]6月1日で食堂営業を廃止した「[[はやぶさ (列車)|みずほ]]」・「[[出雲 (列車)|出雲]]1号・4号」から防災面で電気レンジ以外の設備を利用して提供を開始。
*[[1993年]]3月の改正での食堂車営業を終了して、食堂車連結列車は売店営業に移行。
*[[1994年]]12月ダイヤ改正で「みずほ」廃止。
*[[1997年]]11月ダイヤ改正で「富士」・「はやぶさ」が売店営業の食堂車が編成から外され、下関「あさかぜ」が[[長野新幹線]]開業による車内販売員の従業員確保で売店営業を休止。
*[[1998年]]8月中旬、「出雲」の売店営業が1ヶ月前の「サンライズ出雲」運転開始による下りダイヤ繰り下がりで営業を終了。売店営業列車が東京~長崎の「[[さくら (列車)|さくら]]」のみとなる。
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*[[1999年]]12月ダイヤ改正で「さくら」は「はやぶさ」との統合により売店営業の食堂車が外され、サービスもこの時点で終了する。なお、売店営業休止後も食堂車が連結されていた列車は「フリースペース」として[[2006年]]に列車廃止するまで残存された。
 
 
===== 新幹線 =====
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| 10=100系G編成のカフェテリア</br>148形車内
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[[1964年]]開業の[[東海道新幹線]]では列車の速度が速く、最大乗車区間である東京 - [[新大阪駅|新大阪]]間を開業当初は「[[ひかり (列車)|ひかり]]」で4時間、「[[こだま (列車)|こだま]]」で5時間、翌年より1時間短縮されそれぞれ3時間10分・4時間程度と運転所要時間が短かったため、本格的な食堂車の連結は見送られ、[[新幹線0系電車|0系]]についてはビュフェ車のみ連結していた。当時の35形ビュフェ車はテーブルと回転椅子を装備した着席式で、メニューの上でも比較的食堂車に近い機能を有していた。岡山開業においても、食堂車の連結は見送られた。
 
転換期となったのは[[1975年]][[山陽新幹線]][[博多駅|博多]]開業に際して、乗車時間が最速の「ひかり」でも全線乗車する際では6時間以上と長時間となるために、[[1974年]]より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなった。このため、36形食堂車は、博多開業を前に一度に96両が製造され、1976年に3両の追加増備で計99両が製造された<ref>戦後、食堂車が新規かつ大量に製造されたのはこの時のみである。また、1976年の増備車は狭窓に設計変更されたために1000番台に区分されている。</ref>。この措置により以降製造される一方ビュフェ車は37形、本格的な食堂車の登場設計変更されよって、立食式の簡易形となっに設計変更された37形が製造された。
 
1985年にデビューした[[新幹線100系電車|100系]]では、食堂車は[[2階建車両]]とした168形が製造された(X編成)。しかし、1987年の増備車からは、食堂車に代えて148形[[カフェテリア]]車が連結される様になった(G編成)としたが。一方、1989年から[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が製造した[[グランドひかり]]用V編成については、引き続き食堂車を連結している。
 
全盛期には、定期列車の「ひかり」では全列車食堂営業が行われていたが、スピードアップにより食堂車利用客が減少しつつあった事から、カフェテリア車の連結により食堂営業は縮小に転じ、[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]発生以降で、最後まで残っていた0系「ひかり」食堂車は営業休止となり、[[2000年]]には100系食堂車の営業も終了した。
 
1982年開業の[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]の場合は運転時間が短いため237形ビュフェ車のみとしたが、[[2003年]]に営業を終了した。
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*#首都圏-九州といった1,000kmを超える長距離移動では航空機利用が一般化したため、食堂車利用につながる長距離移動の需要も激減した。
 
なお最盛期に博多開業の時点では、日本食堂・ビュフェとうきょう(ジェイアール東海パッセンジャーズジェイダイナー東海→[[ジェイアール東海パッセンジャーズ]])・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂の4社が担当していたが、JR化後には、山陽新幹線内の「[[ウエストひかり]]」ビュフェのみ参入の[[丸玉給食]]・にっしょく西日本(→Jウェストラン→現・[[ジェイアール西日本フードサービスネット]])が新たに参入し、上越新幹線ビュフェのみ参入の営業していた聚楽の各社<!--業者--><!--を含め、合計7社?-->参入し食堂営業を行っていた。当時の時刻表には列車ごとに担当の会社<!--業者-->が記載されており<ref><!--業者-->会ともよって若干メニューが変わるためであ異なっており、乗客の中にはわざわざ好みの<!--業者-->会社が営業している列車に乗るというケースも見られた。</ref>、また<!--業者-->会社によって一部で[[ステーキ]]や[[カレー]]など一部の特化メニューによって営業を行う事例も見受けられた。
 
===== 連結位置 =====
{{seealso|編成_(鉄道)}}
;在来線
長らく日本戦前までの列車編成は、食堂車で等級を区分してかつ上の等級の車両を下の等級の乗客が、また寝台車を座席の利用者が極力通り抜けないように、1等車+[[A寝台|2等寝台車]]+2等[[座席車]]+食堂車+[[普通車 (鉄道車両)|3等車]]+[[B寝台|3等寝台車]] のように編成するのがされてわば「常識」となり、た。戦後になっても基本的に踏襲されたが、連結両数の増加に伴、フレキシブルに対応される様になった。
 
*[[1956年]]登場の[[寝台列車|寝台]][[特別急行列車|特急]][[あさかぜ (列車)#19561119|「あさかぜ」の車両編成]]を参照のこと。<!--「あさかぜ」の場合20系になったときに緩急車を3等座席車にしたため、3等座席・寝台に関してはこの原則が守られなくなった。 意味不明瞭。[[あさかぜ_(列車)#登場時・在来形客車による編成]]を参照すればわかるが、20系登場以前より緩急寝台車がないことからなし崩し的に崩れている。ただし、たとえば[[国鉄キハ80系気動車]]の「キハ81形」のように[[売店]]を設置することで優等車両への通り抜けを防止する方策はあったが。-->
<!--なお、この原則は同時期の[[こだま_(列車)#東海道本線電車特急「こだま」号 |「こだま」の登場時]]でもほぼ当てはまる形で編成された。-->
 
;[[東海道・山陽新幹線]]