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[[天正]]18年([[1590年]])の仙北一揆においては、秀吉の命令を受けて[[出羽国]]平鹿郡大森城に在城し、[[大谷吉継]]と共にその鎮圧に功績を挙げた。[[天正]]20年([[1592年]])、秀吉の命令により[[朝鮮出兵]]が始まると、景勝に従って[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に赴いたが、その途上に発病し、帰国を許された。帰国後、京の伏見で療養していたが、再起の見込みが無いと分かると、[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]([[9月22日]])に[[大石綱元]]と[[木戸元斎]]宛に自分の死後の色部家を直江兼続に頼むこと、兼続の次女を子・龍松丸(光長)の妻に迎えたいこと、自分の娘を兼続の養子にしてもらいたいことを希望する遺言状を残し、[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]([[10月15日]])に病死した。享年40。家督は嫡子の[[色部光長]]が相続した。
 
長真の死後、兼続は光長の後ろ盾として色部氏を重用し、兼続死後も幕末に至るまで、色部氏は[[米沢藩]]の重臣として藩を支えていくことになる。[[元禄赤穂事件]]([[忠臣蔵]])の時に江戸家老を務めていた[[色部安長]](又四郎)や[[上杉鷹山]]の藩政改革の折に[[七家騒動]]で処分された[[色部照長]](典膳、のち修理)、[[戊辰戦争]]の時に米沢藩総督を勤め新潟で戦死した[[色部久長]](長門)は長真の子孫である。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
 
==人物・逸話==