「吉岡長増」の版間の差分

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* [[天正]]6年(1578年)9月、大友宗麟は重臣が反対するなか島津討伐を強行した際に。家老の[[吉弘鎮信]]は「吉岡宗歓殿、臼杵鑑速殿がいたときは正道正しく、礼儀に違わず、信賞必罰が行われ、人の恨みはなかった。今は[[田原親賢]]の意見が重用され、代々の家臣が遠ざけられ、ねい臣ばかりがはびこり、浅ましい限りである。立花道雪殿がここにいれば大友もここまで悪くならなかったろう」と無念を述べている。
 
* 永禄9年(1566年)のものと思われる書状に「宗歓殿によくよくお伝えしたい問題があり、その用意をしていたところ宗麟夫人からこの問題のため佐藤左近将監が我らの所に使わされました。この問題の状況について項目をつけてお知らせします。あなたに考えてもらうことをお許しください。問題を知ったら、宗歓殿は必ず意見を仰って下さい。我らへの思し召しを持って問題を引き受けられ解決の為関わって下さい。鑑連 鑑速 鑑理より」とある。問題の内容はわからないが、宗歓が頼りにされている事が分かる。
 
*江戸時代の資料には宗歓が度々、義鎮を諫言しているが、史実でも一萬田鑑相、宗像鑑久兄弟と服部右京の3人が義鎮に対し、蜂起した際、宗歓(このときは長増)は三人をかばっている。「何度も(義鎮)を諌めたが、(義鎮)が頻りに討伐命令を出し、お聞きにならなかった。」