|
|
'''土肥 親真'''(どい ちかざね ?- [[天正]]11年([[1583年]])は[[能登越中国]]の土豪で[[守護]][[畠山氏]]の家臣。但馬守。名は「'''親実'''」とも。子に[[土肥能平]]、[[土肥則平]]。嫡子に[[土肥家次]]ら。弟に[[土肥茂次]]。
土肥氏は[[平氏|桓武平氏]]の流れをくみ、[[相模国]]土肥郷に在したことに始まる。後に[[越中国]]の[[地頭]]職として配されており、親真はその流れ越中土肥氏の一族と考えられ、畠山氏る。[[土肥政繁]]の家臣子としする系図も伝わる。天正5年([[1577年]])には上杉家中の列に加わっており、同年[[上杉謙信]]の能登国の羽咋郡押水を支配下侵攻において従軍。[[末森畠山春王丸]]の篭る[[七尾城 (能登国)|]]攻撃に加わっており、末森城]]を居城としたとさ与えられている。
[[天正]]58年([[15771580年]])に[[越後加賀国]]の[[上杉謙信一向一揆]]が能登にを殲滅した[[織田氏]]家臣の[[柴田勝家]]らの侵攻すを受けるとこれに降伏し織田氏に属することとなり、末森城主の座に留まった。能登国が[[畠山春王丸前田利家]]の篭に与えられると、[[七尾城長連龍]]攻撃らと共に加わっ与力として配された。なおり、そこのころに利家の妻ままつ([[芳春院]])の姪である[[末森城守殿]]を与妻に迎えられている。
[[天正]]8年([[1580年]])に[[加賀国]]の[[一向一揆]]を殲滅した[[織田氏]]家臣の[[柴田勝家]]らの侵攻を受けると再び降伏し織田氏に属することとなり、末森城主の座に留まった。能登国が[[前田利家]]に与えられると、[[長連龍]]らと共に与力として配された。なお、このころに利家の妻まつ([[芳春院]])の姪である[[末守殿]]を妻に迎えている。
しかしながら[[天正]]11年([[1583年]])、[[賤ヶ岳の戦い]]で先鋒として出陣し、討死。
|