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== 生涯 ==
[[土佐国]][[長岡郡]]三和村浜改田[[郷士]]・[[高芝重春]](玄馬)・徳夫妻の次女。母は徳。生まれて間もなくに父・重春が没したため、母・徳は[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]]井ノ口村郷士の久萬氏に再嫁しており、喜勢は[[吾川郡]]御畳瀬村に住む叔父の[[高芝小七郎]]・古馬夫妻によって養育された。
 
[[文久]]2年([[1862年]])母の再嫁先である[[久萬直勝]]と[[吉村喜久次]]・はつ夫妻(岩崎弥太郎の姉夫婦にあたる)の仲介・媒酌によって弥太郎に嫁いだ。
 
喜勢は弥太郎との間に長女・春路([[加藤高明]]夫人)、長男・[[岩崎久弥|久弥]]([[三菱グループ|三菱]]の3代目総帥)、次女・磯路([[木内重四郎]]夫人)の1男2女をもうけ<ref>岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎久傳』p.152 [[東京大学出版会]] [[1961年]][[12月2日]]発行</ref>、家庭では義父・[[岩崎弥次郎|弥次郎]]や義母・[[岩崎美和|美和]]によく仕えたといわれている。
 
維新後の[[明治]]7年([[1874年]])[[東京府]]に転居。自邸内に雛鳳館を作って子女(養子や弥太郎の妾腹の子を含む)の教育を行い、また美和とともに[[真言律宗]]の[[釈雲照]]に帰依し、十善会・婦人正法会を発足した。