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'''烏桓'''([[呉音]]:'''うがん'''、[[漢音]]:おかん、[[拼音]]:Wūhuán)は、[[紀元前1世紀]]から紀元後[[3世紀]]にかけて[[中国]]北部(現在の[[内モンゴル自治区]])に存在していた民族。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』などでは'''烏丸'''と表記する。
 
== 概要 ==
烏桓は[[東胡]]から出た[[遊牧民族]]で、[[匈奴]]に元の居住地を追われた後、烏桓山に割拠したことからこの呼び名が付いたという。[[鮮卑]]と同族で、古くから[[テュルク]]系とも[[モンゴル]]系とも言われているが、種族の判明はされてない。紀元前には匈奴に服属し、牧畜、狩猟を生業としていた。騎射に優れ、その騎兵は精強で鳴らした。
 
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== 歴史 ==
 
=== 匈奴からの独立 ===
[[漢代]]の初め、[[匈奴]]の[[冒頓単于]]が[[東胡]]を滅ぼした際、その生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と[[鮮卑]]になった。はじめは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。もし定めの時期を過ぎてもその数がそろわないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。匈奴の[[壺衍鞮単于]](こえんていぜんう)(在位:[[紀元前85年]] - [[紀元前68年]])の時代になると、烏丸の力がだんだん強くなり、匈奴の[[単于]]の墓をあばいて、冒頓単于に破られた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、2万の騎兵をやって烏丸に攻撃をかけた。[[前漢|漢]]の[[大将軍]]の[[霍光]](かくこう)は、この情報を得ると、[[度遼将軍]]の[[范明友]]を送り、3万の騎兵を率いて、遼東郡から出陣し、匈奴の後を追って攻撃をかけた。范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏丸は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏丸に攻撃をかけ、六千6000余りの首級を上げ、3人の王の首をって帰還した。その後も烏丸は幾度か[[万里の長城|長城]]地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。[[新]]の[[王莽]]の末年になると、烏丸は匈奴とともに侵略を行うようになった。[[光武帝]]が天下を平定すると、伏波将軍の[[馬援]]を送り、三千3000の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。しかしなんの成果もげず、馬1000余匹を死なせただけであった。烏丸は引き続いて勢力を盛んにし、匈奴に略奪や攻撃をしか仕掛けた。匈奴は千里のかなた彼方へ居住地を移し、漠南の地([[内モンゴル]])は空になった。
 
[[漢代]]の初め、[[匈奴]]の[[冒頓単于]]が[[東胡]]を滅ぼした際、その生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と[[鮮卑]]になった。はじめは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。もし定めの時期を過ぎてもその数がそろわないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。匈奴の[[壺衍鞮単于]](こえんていぜんう)(在位:[[紀元前85年]] - [[紀元前68年]])の時代になると、烏丸の力がだんだん強くなり、匈奴の[[単于]]の墓をあばいて、冒頓単于に破られた時の恥に報復した。壺衍鞮単于は激怒し、二万の騎兵をやって烏丸に攻撃をかけた。[[前漢|漢]]の[[大将軍]]の[[霍光]](かくこう)は、この情報を得ると、[[度遼将軍]]の[[范明友]]を送り、三万の騎兵を率いて、遼東郡から出陣し、匈奴の後を追って攻撃をかけた。范明友の軍が到着したときには、匈奴はもう引き揚げた後だった。烏丸は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏丸に攻撃をかけ、六千余りの首級を上げ、三人の王の首をとって帰還した。その後も烏丸は幾度か[[万里の長城|長城]]地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。[[新]]の[[王莽]]の末年になると、烏丸は匈奴とともに侵略を行うようになった。[[光武帝]]が天下を平定すると、伏波将軍の[[馬援]]を送り、三千の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。しかしなんの成果もあげず、馬千余匹を死なせただけであった。烏丸は引き続いて勢力を盛んにし、匈奴に略奪や攻撃をしかけた。匈奴は千里のかなたへ居住地を移し、漠南の地([[内モンゴル]])は空になった。
 
=== 後漢の時代 ===
[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])、烏丸の大人[[郝旦]](かくたん)ら九千9000余人が部下をれて漢の朝廷にやってきた。そのおもだった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、[[遼東属国]]、[[遼西郡|遼西]]、[[右北平郡|右北平]]、[[漁陽郡|漁陽]]、[[燕国|広陽]]、[[上谷郡|上谷]]、[[代郡]]、[[雁門郡|雁門]]、[[太原郡|太原]]、[[朔方郡|朔方]]の諸郡に分けて住まわせ、同じ烏丸族の者たちを内地に移るよう招きせた。彼らに衣食を給し、[[護烏丸校尉]]の官を置いてその統治と保護にあたらせた。こうした施策の結果、烏丸は漢のために[[塞外]]の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。
 
[[永平 (漢)|永平]]年間になって、漁陽烏丸の大人の[[欽志賁]](きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑もふたたび漢へ攻撃を始めた。遼東[[太守]]の[[祭肜]](さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。
[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])、烏丸の大人[[郝旦]](かくたん)ら九千余人が部下をひきつれて漢の朝廷にやってきた。そのおもだった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、[[遼東属国]]、[[遼西郡|遼西]]、[[右北平郡|右北平]]、[[漁陽郡|漁陽]]、[[燕国|広陽]]、[[上谷郡|上谷]]、[[代郡]]、[[雁門郡|雁門]]、[[太原郡|太原]]、[[朔方郡|朔方]]の諸郡に分けて住まわせ、同じ烏丸族の者たちを内地に移るよう招きよせた。彼らに衣食を給し、[[護烏丸校尉]]の官を置いてその統治と保護にあたらせた。こうした施策の結果、烏丸は漢のために[[塞外]]の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。
 
[[永平 (漢)|永平]]年間になって、漁陽烏丸の大人の[[欽志賁]](きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑もふたたび漢へ攻撃を始めた。遼東[[太守]]の[[祭肜]](さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。
 
[[安帝 (漢)|安帝]]の時代になると、漁陽・右北平・雁門の烏丸の率衆王[[無何]](むか)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡、上谷、[[涿郡]]、五原で略奪をはたらいた。そこで[[大司農]]の[[何熙]](かき)に[[車騎将軍]]を兼任させ、[[近衛兵]]をその旗下につけ、国境地帯の7つの郡と[[黎陽営]]の兵士を動員して、合わせて2万の軍で攻撃をかけさせた。匈奴は降服し、[[鮮卑]]と烏丸はそれぞれ長城の外へ引きげていった。これ以後、烏丸はまただんだんと漢に接近してきたので、彼らの大人[[戎末廆]](じゅうまつかい)を[[都尉]]の官にけた。[[順帝 (漢)|順帝]]の時代には、戎末廆は、おもだった配下の[[咄帰]](とつき)や[[去延]]らを率い、護烏丸校尉の耿曄(こうよう)に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、[[絹]]を賜った。
 
=== 蹋頓の登場 ===
漢の末年、遼西烏丸の大人[[丘力居]](きゅうりききょ)は五千5000余りの落を配下に置き、上谷烏丸の大人[[難楼]](なんろう)は、九千9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏丸の大人[[蘇僕延]](そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏丸の大人[[烏延]]は八百800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。[[中山郡|中山]][[太守]]の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏丸の総指揮者となり、[[青州|青]]・[[徐州|徐]]・[[幽州|幽]]・[[冀州|冀]]の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪をおこなった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]の末年、[[劉虞]]が幽州の[[刺史|牧]]に任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子の[[楼班]]は年が若く、従子の[[トウ頓|蹋頓]]に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。人々はみな彼の命令をよくいた。[[袁紹]]が[[公孫サン|公孫瓚]]と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延に印綬を与えて、それぞれ[[単于]]の称号を与えた。
 
のちに楼班が成長すると、峭王([[蘇僕延]])はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于となし、蹋頓を王とした。しかるに蹋頓は、策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の[[閻柔]]は、若い時捕らえられて烏丸と[[鮮卑]]のもとに連れてこられたが、そのうち異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。閻柔はそこで鮮卑部族の力を借りて、[[護烏丸校尉]]の[[ケイ挙|邢挙]]を殺すと、自ら護烏丸校尉の官にいた。袁紹はこれを利用し閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに[[袁尚]]が[[曹操]]に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力をたのんで[[冀州]]奪回をもくろ目論んだ。ちょうどそのころ頃、曹操は[[河北]]を平定し、閻柔は鮮卑と烏丸をれて曹操のもとに帰順した。そこでつづいて閻柔を護烏丸校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり[[上谷郡]]寧城で職務にあたらせた。
漢の末年、遼西烏丸の大人[[丘力居]](きゅうりききょ)は五千余りの落を配下に置き、上谷烏丸の大人[[難楼]](なんろう)は、九千余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏丸の大人[[蘇僕延]](そぼくえん)は千余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏丸の大人[[烏延]]は八百余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。[[中山郡|中山]][[太守]]の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏丸の総指揮者となり、[[青州|青]]・[[徐州|徐]]・[[幽州|幽]]・[[冀州|冀]]の四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪をおこなった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]の末年、[[劉虞]]が幽州の[[刺史|牧]]に任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせることができた。のちに丘力居が死ぬと、息子の[[楼班]]は年が若く、従子の[[トウ頓|蹋頓]]に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。人々はみな彼の命令をよく聴いた。[[袁紹]]が[[公孫サン|公孫瓚]]と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延に印綬を与えて、それぞれ[[単于]]の称号を与えた。
 
[[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]])、曹操は自ら[[柳城]]の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100あまりの所で、敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵をひきいて[[凡城]]に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見わたし、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見とどけてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野をめた。速附丸・楼班・烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外のりに残った者たちも、みな降伏した。これらの者たちを、[[幽州]]と[[并州|幷州]]で閻柔の配下にあった烏丸1万余りの落といっしょ一緒にし、部族をげて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、[[曹操]]の軍に加わらせた。こうして三郡の烏丸は騎兵としての名が天下に聞こえた。
のちに楼班が成長すると、峭王([[蘇僕延]])はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于となし、蹋頓を王とした。しかるに蹋頓は、策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の[[閻柔]]は、若い時捕らえられて烏丸と[[鮮卑]]のもとに連れてこられたが、そのうち異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。閻柔はそこで鮮卑部族の力を借りて、[[護烏丸校尉]]の[[ケイ挙|邢挙]]を殺すと、自ら護烏丸校尉の官についた。袁紹はこれを利用し閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに[[袁尚]]が[[曹操]]に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力をたのんで[[冀州]]奪回をもくろんだ。ちょうどそのころ曹操は[[河北]]を平定し、閻柔は鮮卑と烏丸をひきつれて曹操のもとに帰順した。そこでひきつづいて閻柔を護烏丸校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり[[上谷郡]]寧城で職務にあたらせた。
 
[[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]])、曹操は自ら[[柳城]]の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前百里あまりの所で、敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵をひきいて[[凡城]]に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見わたし、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見とどけてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野をうめた。速附丸・楼班・烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外のちりぢりに残った者たちも、みな降伏した。これらの者たちを、[[幽州]]と[[并州|幷州]]で閻柔の配下にあった烏丸一万余りの落といっしょにし、部族をあげて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、[[曹操]]の軍に加わらせた。こうして三郡の烏丸は騎兵としての名が天下に聞こえた。
 
=== 魏の時代 ===
[[景初]]元年([[237年]])秋、幽州[[刺史]]の[[カン丘倹|毋丘倹]](かんきゅうけん)を遣わし、多くの軍団をひきいて遼東を討たせた。右北平烏丸[[単于]]の[[寇婁敦]](こうろうとん)と遼西烏丸[[都督]]・率衆王の[[護留]]とは昔、[[袁紹]]に従って遼西に逃亡してきたのであるが、毌丘倹の軍が来ると聞いて、配下の五千5000余人をれて降伏した。寇婁敦は弟の[[阿羅槃]](あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。朝廷は、寇婁敦の配下のおもだった指揮者三十30余人を王に封じ、[[輿]](こし)や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。
 
[[景初]]元年([[237年]])秋、幽州[[刺史]]の[[カン丘倹|毋丘倹]](かんきゅうけん)を遣わし、多くの軍団をひきいて遼東を討たせた。右北平烏丸[[単于]]の[[寇婁敦]](こうろうとん)と遼西烏丸[[都督]]・率衆王の[[護留]]とは昔、[[袁紹]]に従って遼西に逃亡してきたのであるが、毌丘倹の軍が来ると聞いて、配下の五千余人をひきつれて降伏した。寇婁敦は弟の[[阿羅槃]](あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。朝廷は、寇婁敦の配下のおもだった指揮者三十余人を王に封じ、[[輿]](こし)や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。
 
== 習俗 ==
烏丸は、騎射に巧みで、水や牧草を追って[[放牧]]をおこない、定住地はない。[[ゲル (家屋)|穹廬]](きゅうろ:テント)を家とし、入口はみな[[太陽]]の方向に向ける。鳥獣を狩りし、肉を食べ酪(らく:[[ヨーグルト]]の類)を飲み、けものの毛で着物を作る。若者が貴ばれ老人は賤しめられ、その性格は乱暴で、腹を立てれば父や兄をも殺すが、母親には決して危害を加えない。なぜなら、母親には母方の一族がいるが、父や兄は自分と同族で、彼らを殺しても報復をする者がいないからである。勇敢壮健な者で、互いの訴えや争いごとを裁いてゆける者を選んで大人(たいじん:部族長)とするのが通例である。邑落ごとに下級の統率者がいるが、[[世襲]]ではない。数百から数千の落(らく:集落の最少単位で、約2~3戸20数人ほど)が集まって一つの部族を作っている。大人が人を集める時には、木に刻み目を入れてしるしとし、邑落(ゆうらく:落が20数戸集まり、人口約百十数人ほど)の間を回す。[[文字]]はないが、部族民はけっして大人の召集を間違えることはない。定まった[[姓氏]]はなく、大人や勇者の名を姓とする。大人以下、それぞれに[[牧畜]]を仕事とし、徭役(ようえき:土木工事)にかり出されることはない。
 
=== 結婚 ===
彼らが[[結婚]]するときには、皆まず、ひそかに情を通じて、女を奪い去ってゆく。半年あるいは100日もってから、[[仲人]]をやって[[馬]]や[[牛]]や[[羊]]を贈物として嫁取りの礼を行う。婿は妻について妻の実家に入り、妻の家の者には誰であろうと、朝ごとに拝礼を行う。しかし自分の父母を拝礼することはないのである。妻の家のために下男の仕事を2年間すると、妻の家のほうでは手厚い贈物をして娘を送り出す。その際の住居や品物は、すべて妻の家が整える。こうしたことから彼らの習わしとしてすべてのことが婦人の指図で決められるが、ただ戦闘に関することだけは、男子自らが決定をくだす。父と子、男と女が、向かい合って立てひざで座る。みな頭を剃っていて、この方が軽くてよいらしい。婦人は嫁入りするときになって、髪をたくわえはじめ、分けて髻(もとどり)につくり、そこに句決(こうけつ:帽子の一種)をつけ、それを[[金]]や碧玉で飾る。父や兄が死ぬと、その残された妻を自分の妻とし、あるいは嫂(あによめ)とする([[レヴィレート婚|レヴィレイト]]婚)。亡父に弟がなく娶ってもらえぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯叔の次妻となる。彼女が死ねば、もとの夫といっしょ一緒に葬られる。
 
彼らが[[結婚]]するときには、皆まず、ひそかに情を通じて、女を奪い去ってゆく。半年あるいは百日もたってから、[[仲人]]をやって[[馬]]や[[牛]]や[[羊]]を贈物として嫁取りの礼を行う。婿は妻について妻の実家に入り、妻の家の者には誰であろうと、朝ごとに拝礼を行う。しかし自分の父母を拝礼することはないのである。妻の家のために下男の仕事を二年間すると、妻の家のほうでは手厚い贈物をして娘を送り出す。その際の住居や品物は、すべて妻の家が整える。こうしたことから彼らの習わしとしてすべてのことが婦人の指図で決められるが、ただ戦闘に関することだけは、男子自らが決定をくだす。父と子、男と女が、向かい合って立てひざで座る。みな頭を剃っていて、この方が軽くてよいらしい。婦人は嫁入りするときになって、髪をたくわえはじめ、分けて髻(もとどり)につくり、そこに句決(こうけつ:帽子の一種)をつけ、それを[[金]]や碧玉で飾る。父や兄が死ぬと、その残された妻を自分の妻とし、あるいは嫂(あによめ)とする([[レヴィレート婚|レヴィレイト]]婚)。亡父に弟がなく娶ってもらえぬ寡婦は、自分の子供に夫の後を継がせ、自分は伯叔の次妻となる。彼女が死ねば、もとの夫といっしょに葬られる。
 
=== 産業 ===
彼らはみな鳥獣の繁殖の時期をよく知っていて、それによって[[四季]]を区別する。たとえば、畑を耕し種をく仕事は、布穀鳥([[カッコウ]])が鳴くのを合図にするのである。その土地は青穄(くろきび)や東牆(とうしょう)の成育に適している。東牆は[[ヨモギ]]のような草で、実は[[葵]]の種に似て、10月に実る。白酒を作る技術はあるが、[[麹]](こうじ)を作ることは知らない。[[米]]は常に中国からの供給に頼っている。大人たちは、[[弓矢]]や[[鞍]](くら)・[[勒]](くつわ)を作り、[[銅]]や[[鉄]]を鍛造して兵器を作ることができ、また皮にきれいな刺繍をし、[[毛氈]](もうせん)を織り出すことができる。
 
彼らはみな鳥獣の繁殖の時期をよく知っていて、それによって[[四季]]を区別する。たとえば、畑を耕し種をまく仕事は、布穀鳥([[カッコウ]])が鳴くのを合図にするのである。その土地は青穄(くろきび)や東牆(とうしょう)の成育に適している。東牆は[[ヨモギ]]のような草で、実は[[葵]]の種に似て、十月に実る。白酒を作る技術はあるが、[[麹]](こうじ)を作ることは知らない。[[米]]は常に中国からの供給に頼っている。大人たちは、[[弓矢]]や[[鞍]](くら)・[[勒]](くつわ)を作り、[[銅]]や[[鉄]]を鍛造して兵器を作ることができ、また皮にきれいな刺繍をし、[[毛氈]](もうせん)を織り出すことができる。
 
=== 病気 ===
 
[[病気]]になると、彼らの知識では、[[艾]](もぐさ)で[[灸|お灸]]をしたり、あるいは焼いた石を患部に押し当て、火を焚いて暖めた土の上に寝転がり、あるいは痛みのある病気の個所ごとに、小刀で[[血管]]を切って[[血]]を出す。また天地山川の神々に病気の平癒を祈願する。[[鍼]]や[[薬]]はない。基本、戦闘で死ぬことが貴ばれる。
 
=== 葬祭 ===
屍体をめるのに[[棺]]が用いられる。死んだ当初は哭泣するが、[[葬儀]]のときには歌舞によって死者を送り出す。充分に肥らせておいた[[犬]]を、彩りのある綱でつないで、死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品と一緒にまとめ、それらに火をかけて[[火葬]]する。とくにその犬は、死者の神霊([[魂]])を護って、赤山まで導いてゆく役目を負わされている。埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬をいて順番にその座をまわる。歌ったり哭したりしている者たちは、肉を投げてやったりする。死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通り抜け、悪い精霊たちに邪魔をされず、無事に赤山に行きつけるよう2人の者に呪文をとなえさせる。それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは[[鬼神]]をうやまい、天地や日月星辰や山川をまつり、死んだ大人のうちで武勇にほまれ高い者にも、同様に牛羊をささげて祭る。祭りが終わると、奉げものは全て焼いてしまう。飲食をする場合には、まずその一部を神々への捧げものとする。
 
屍体を収めるのに[[棺]]が用いられる。死んだ当初は哭泣するが、[[葬儀]]のときには歌舞によって死者を送り出す。充分に肥らせておいた[[犬]]を、彩りのある綱でつないで、死者が乗っていた馬やその着物、生前の装飾品と一緒にまとめ、それらに火をかけて[[火葬]]する。とくにその犬は、死者の神霊([[魂]])を護って、赤山まで導いてゆく役目を負わされている。埋葬の日には、夜になると親族や古なじみたちが集まって車座になり、犬と馬をひいて順番にその座をまわる。歌ったり哭したりしている者たちは、肉を投げてやったりする。死者の魂が険阻な場所をまっすぐ通り抜け、悪い精霊たちに邪魔をされず、無事に赤山に行きつけるよう二人の者に呪文をとなえさせる。それが終わると、犬と馬を殺し、衣服と一緒に焼く。彼らは[[鬼神]]をうやまい、天地や日月星辰や山川をまつり、死んだ大人のうちで武勇にほまれ高い者にも、同様に牛羊をささげて祭る。祭りが終わると、奉げものは全て焼いてしまう。飲食をする場合には、まずその一部を神々への捧げものとする。
 
=== 刑罰 ===
彼らの間の掟として、大人の命令に背いたものは死刑、盗みを止めないものは死刑の2条がある。殺害事件が起こったときには、部落の間で報復を行わせる。互いに報復し合ってやまない時には、大人のもとに出て判決を受ける。有罪とされたものは、自分の牛や羊を出して生命をあがなうことによって、事件は落着する。自分自身の父や兄を殺したときには罪にならない。逃亡した後大人に捕えられた者は、どこの邑落もその身柄を引き受けようとはせず、みんなして“雍狂の地”に追いやってしまう。“雍狂の地”というのは、山はなく、[[砂漠]]と水沢と草木が生えるばかりで、[[マムシ]]が多く、[[丁零|丁令]]の西南、[[烏孫]]の東北に当たる。そこに追いやって苦しめるのである。
 
彼らの間の掟として、大人の命令に背いたものは死刑、盗みを止めないものは死刑の二条がある。殺害事件が起こったときには、部落の間で報復を行わせる。互いに報復し合ってやまない時には、大人のもとに出て判決を受ける。有罪とされたものは、自分の牛や羊を出して生命をあがなうことによって、事件は落着する。自分自身の父や兄を殺したときには罪にならない。逃亡した後大人に捕えられた者は、どこの邑落もその身柄を引き受けようとはせず、みんなして“雍狂の地”に追いやってしまう。“雍狂の地”というのは、山はなく、[[砂漠]]と水沢と草木が生えるばかりで、[[マムシ]]が多く、[[丁零|丁令]]の西南、[[烏孫]]の東北に当たる。そこに追いやって苦しめるのである。
 
== 民族系統と名称 ==
 
=== 民族系統 ===
まず、烏桓族の祖先は[[東胡]]であると『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[後漢書]]』などの[[中国]]の史書は伝えており、これは間違いない。しかし、その東胡の民族系統については、[[ツングース]]説、[[モンゴル諸語|モンゴル]]説、ツングースとモンゴルの混合説などとはっきりしていない。また、烏桓と同族とされる[[鮮卑]]についても、モンゴル説、[[テュルク]]説、モンゴルとテュルクの混種説など諸説ある。いずれにしても、烏桓族は[[アルタイ諸語]]に分類されることがかる。
 
まず、烏桓族の祖先は[[東胡]]であると『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[後漢書]]』などの[[中国]]の史書は伝えており、これは間違いない。しかし、その東胡の民族系統については、[[ツングース]]説、[[モンゴル諸語|モンゴル]]説、ツングースとモンゴルの混合説などとはっきりしていない。また、烏桓と同族とされる[[鮮卑]]についても、モンゴル説、[[テュルク]]説、モンゴルとテュルクの混種説など諸説ある。いずれにしても、烏桓族は[[アルタイ諸語]]に分類されることがわかる。
 
=== 名称 ===
『三国志』烏丸等伝の注釈『王沈魏書』、『後漢書』烏桓鮮卑列伝などはすべて、東胡の生き残りがそれぞれ烏桓山と鮮卑山に拠り、その山の名前が民族名となったということを記している。しかし、多くの研究者は逆に烏桓鮮卑族がもともとその山を根拠地としていたために、民族名が山の名前となったとしている。そこで、「烏桓」という名の語源はというと諸説あり、そのなかでも3つの説が有力視された。
 
*[[白鳥庫吉]]のukhagan([[モンゴル語|蒙古語]]:知識・聡明)説・・・白鳥氏は北方民族の尊称で「聡明」の意味を使用しているのは少なくないとし、たとえば、[[匈奴]]では太子のことを「左屠耆王」といい、「屠耆(とき)」とは「賢明(聡明)」の意味であり、[[突厥]]・[[ウイグル|回鶻]]の君主号[[可汗]]の尊称「毗伽可汗(ビルゲカガン)」の「毗伽(ビルゲ、bilgä)」とは「賢明(聡明)」の意味で、蒙古の尊号に「薛禅(tsetsen)」とあるのも「聡明」の意味であるとし、「烏桓(ukhagan)」とは、東胡の王より与えられた称号のひとつであるとした。
『三国志』烏丸等伝の注釈『王沈魏書』、『後漢書』烏桓鮮卑列伝などはすべて、東胡の生き残りがそれぞれ烏桓山と鮮卑山に拠り、その山の名前が民族名となったということを記している。しかし、多くの研究者は逆に烏桓鮮卑族がもともとその山を根拠地としていたために、民族名が山の名前となったとしている。そこで、「烏桓」という名の語源はというと諸説あり、そのなかでも三つの説が有力視された。
*[[馮家昇]]のubusun(蒙古語:草)説・・・馮氏はまず、烏桓(うがん、wūhuán)と[[宇文部|宇文]](うぶん、yŭwén)を同じものと考え、『[[資治通鑑]]』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は[[炎帝]]の出自であり、その後、草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、qífén/sìfén)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とあることから、長城付近の蒙古語で草をいうebesu/ebesun、喀爾喀([[ハルハ]])語で草をいうubusu/ubusun、[[ブリヤート語]]で草をいうöbuhim/öböhonより、「烏桓(wūhuán)」 の語源は「草(ubusun)」であるとした。
*[[丁謙]]のulan(蒙古語:紅)説・・・丁氏は、烏桓は烏桓山という山の名前からついた族名であるという史書の記載を遵守し、蒙古語で紅を烏蘭(うらん、ulan)といい、『王沈魏書』に出てくる赤山(上記に記載)とはulan山の意訳であり、烏桓山はその音訳であって烏桓とは「赤」の意味であるとした。
 
この3つの説の中では丁謙のulan説が一番信憑性がありそうだが、それを立証する史料がないのではっきりしたことはえない。しかし、この3つの説のほかに『北アジア史研究』を著した内田吟風は、「烏桓=帰順来降者」という説を提唱した。
*[[白鳥庫吉]]のukhagan([[モンゴル語|蒙古語]]:知識・聡明)説・・・白鳥氏は北方民族の尊称で「聡明」の意味を使用しているのは少なくないとし、たとえば、[[匈奴]]では太子のことを「左屠耆王」といい、「屠耆(とき)」とは「賢明(聡明)」の意味であり、[[突厥]]・[[ウイグル|回鶻]]の君主号[[可汗]]の尊称「毗伽可汗(ビルゲカガン)」の「毗伽(ビルゲ、bilgä)」とは「賢明(聡明)」の意味で、蒙古の尊号に「薛禅(tsetsen)」とあるのも「聡明」の意味であるとし、「烏桓(ukhagan)」とは、東胡の王より与えられた称号のひとつであるとした。
 
*[[内田吟風]]の帰順来降者説・・・内田氏は、3つの視点から「烏桓」は「帰順」という意味であるとした。第一に、匈奴の[[屠耆単于]](在位:[[紀元前58年]] - [[紀元前56年]])が[[呼韓邪単于]](在位:[[紀元前58年]] - [[紀元前31年]])に敗れ自殺し、その子である[[王定]]が[[前漢|漢]]に降り信成侯に封ぜられた際、『[[漢書]]』景武昭宣元成功臣表第五にて屠耆単于を「匈奴烏桓屠耆単于」と記しているのは、屠耆単于の子である王定が漢に帰順したので「匈奴の帰順せる屠耆単于」という意味で王定らが父を追称したからではないか。第二に、[[王莽]]の[[始建国]]2年([[10年]])九月、[[新]]の西域戊己校尉史の[[陳良]]と[[終帯]]が漢大将軍を称し、戊己校尉史の刁護(ちょうご)を殺して匈奴に帰順した際、[[烏珠留若鞮単于]](在位:[[紀元前8年]] - [[13年]])は彼らを大いに歓迎して単于庭(宮中)に留まらせ「烏桓都将軍」の称号を授けたと『漢書』匈奴伝、王莽伝に記されており、これを「帰義来降の大将軍」という意味でとるのが妥当である。第三に、鮮卑[[代 (五胡十六国)|代王]]の[[拓跋什翼犍]]が[[339年]]に代国の諸制度を立てたことを、『[[魏書]]』官氏志にて「その諸方来附者、総じて烏丸といい、各多少をもって酋庶長と称す」とあり、これを烏丸=帰順来附者の巨証であるとし、これら3つの明証をもって「烏桓」とは東胡人が匈奴に帰服したために「帰順」という意味の「烏桓」という族名を授かったとした。
*[[馮家昇]]のubusun(蒙古語:草)説・・・馮氏はまず、烏桓(うがん、wūhuán)と[[宇文部|宇文]](うぶん、yŭwén)を同じものと考え、『[[資治通鑑]]』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は[[炎帝]]の出自であり、その後、草の効能を試したため、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、qífén/sìfén)』から、俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とあることから、長城付近の蒙古語で草をいうebesu/ebesun、喀爾喀([[ハルハ]])語で草をいうubusu/ubusun、[[ブリヤート語]]で草をいうöbuhim/öböhonより、「烏桓(wūhuán)」 の語源は「草(ubusun)」であるとした。
 
*[[丁謙]]のulan(蒙古語:紅)説・・・丁氏は、烏桓は烏桓山という山の名前からついた族名であるという史書の記載を遵守し、蒙古語で紅を烏蘭(うらん、ulan)といい、『王沈魏書』に出てくる赤山(上記に記載)とはulan山の意訳であり、烏桓山はその音訳であって烏桓とは「赤」の意味であるとした。
 
この三つの説の中では丁謙のulan説が一番信憑性がありそうだが、それを立証する史料がないのではっきりしたことはいえない。しかし、この三つの説のほかに『北アジア史研究』を著した内田吟風は、「烏桓=帰順来降者」という説を提唱した。
 
*[[内田吟風]]の帰順来降者説・・・内田氏は、三つの視点から「烏桓」は「帰順」という意味であるとした。第一に、匈奴の[[屠耆単于]](在位:[[紀元前58年]] - [[紀元前56年]])が[[呼韓邪単于]](在位:[[紀元前58年]] - [[紀元前31年]])に敗れ自殺し、その子である[[王定]]が[[前漢|漢]]に降り信成侯に封ぜられた際、『[[漢書]]』景武昭宣元成功臣表第五にて屠耆単于を「匈奴烏桓屠耆単于」と記しているのは、屠耆単于の子である王定が漢に帰順したので「匈奴の帰順せる屠耆単于」という意味で王定らが父を追称したからではないか。第二に、[[王莽]]の[[始建国]]二年([[10年]])九月、[[新]]の西域戊己校尉史の[[陳良]]と[[終帯]]が漢大将軍を称し、戊己校尉史の刁護(ちょうご)を殺して匈奴に帰順した際、[[烏珠留若鞮単于]](在位:[[紀元前8年]] - [[13年]])は彼らを大いに歓迎して単于庭(宮中)に留まらせ「烏桓都将軍」の称号を授けたと『漢書』匈奴伝、王莽伝に記されており、これを「帰義来降の大将軍」という意味でとるのが妥当である。第三に、鮮卑[[代 (五胡十六国)|代王]]の[[拓跋什翼犍]]が[[339年]]に代国の諸制度を立てたことを、『[[魏書]]』官氏志にて「その諸方来附者、総じて烏丸といい、各多少をもって酋庶長と称す」とあり、これを烏丸=帰順来附者の巨証であるとし、これら三つの明証をもって「烏桓」とは東胡人が匈奴に帰服したために「帰順」という意味の「烏桓」という族名を授かったとした。
 
実際、近代蒙古語で投下奴隷をunaganといい、信憑性はありそうである。また、Edwin G. Pulleyblank は、古代中国人は外国語の「a」をしばしば「烏」で写す例が多く、音声上では烏桓の古音はah-hwarでありうる可能性が強く、烏桓はむしろ後世ヨーロッパに侵入したアジアの遊牧民族Awar([[アヴァール]])を写したものではないかとしている。もし烏桓がAwarを写したものであり、Awarがモンゴル語のabarga(蛇・蠕動)と連結するならば、烏桓族はテュルク・モンゴル族に普遍的にみられる狼を[[トーテム]]獣とするが、その狼を虫(蛇)という隠語で呼んだ[[柔然]]族の祖であった可能性が高い。いずれにせよ烏桓の原音原義を決定的に断定するには、今後の研究を要するべきであろう。
 
== おもな指導者 ==
 
*郝旦([[光武帝]]の時代)…[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])に朝貢。
*欽志賁(歆志賁)([[永平 (漢)|永平]]年間)…漁陽の烏丸。反乱を起こすが、暗殺される。
*無可([[安帝 (漢)|安帝]]の時代)…漁陽・右北平・雁門の率衆王。[[永初 (漢)|永初]]3年([[109年]])反乱を起こす。
*於秩居(安帝の時代)…[[元初]]4年([[117年]])、漢とともに、[[鮮卑]]の[[連休 (鮮卑)|連休]]を討つ。<『[[後漢書]]』鮮卑伝>
*戎末廆([[順帝 (漢)|順帝]]の時代)…親漢都尉として漢朝に貢献。率衆王の位を与えられる。
*阿堅&羌渠(順帝の時代)…[[永和 (漢)|永和]]5年([[140年]])、[[南匈奴]]とともに、反乱をこす。<『後漢書』烏桓伝>
*[[骨進]]
 
<遼西>
*[[丘力居]]([[霊帝 (漢)|霊帝]]から[[初平]]年間)
*楼班(?(? - [[207年]])…丘力居の子。成長してから[[単于]]となる。
*[[トウ頓|蹋頓]](蹹頓)()(初平年間 - 207年)…丘力居の従子で、丘力居の後を継ぐ。[[袁紹]]より[[単于]]の称号を受ける。
*護留(葉)葉)([[曹叡]]の時代)…[[237年]]に朝貢。
 
<上谷>
*難楼(那楼と同一人物か?)(??)(? - ?)…?)…袁紹より単于の称号を受ける。
*那楼([[建安 (漢)|建安]]年間)…単于代行。
 
<遼東属国>
*蘇僕延(?(? - ?)…?)…峭王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。
*速僕丸(速附丸)(?)(? - [[207年]])…単于。[[公孫康]]に討ち取られる。
 
<右北平>
*烏延(?(? - 207年)…汗魯王を自称。袁紹より単于の称号を受ける。
*能臣抵之(?(? - 207年)…単于。[[曹操]]に討ち取られる。
*寇婁敦(曹叡の時代)…[[237年]]に朝貢。
 
<代郡>
*普富盧(建安年間)…単于代行。[[216年]]に朝貢。
*無臣氐([[能臣氐]])()(建安年間)…[[218年]]、[[軻比能]]と手を組み、反乱をこす。
*修武盧(普富盧と同一人物か?)…?)…軻比能の配下
 
== 関連項目 ==
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== 参考資料 ==
*陳寿『三国志』(魏書:武帝紀、烏丸伝、鮮卑伝)([[筑摩書房]] [[1992年]])
*『騎馬民族史1』訳注者:内田吟風、田村実造、他([[平凡社]] [[1973年]])
*[[岡崎文夫 (東洋史)|岡崎文夫]]『魏晋南北朝史』([[平凡社]] [[1989年]])
*内田吟風『北アジア史研究』([[同朋舎]] [[1975年]])
 
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{{DEFAULTSORT:うかん}}
[[Category:中央ユーラシア史]]
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[[Category:遊牧]]
[[Category:中国史に現れる周辺民族]]
 
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[[ca:Wu-huan]]