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'''明智秀満'''('''あけち ひでみつ'''、[[1557年]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年)? - [[1582年]][[7月4日]]([[天正]]10年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の[[武将]]である。織田氏家臣の[[明智光秀]]の重臣。旧姓三宅。通称弥平次。[[荒木村重]]の嫡男村次に嫁いでいたが離縁された光秀の長女と結婚。
 
『明智軍記』では光秀の従兄弟、明智左馬助光春として有名だいるが、実際には従兄弟ではなく、三宅氏である。[[天正]]8年~同9年ころに明智姓を与えられたと推定される。また、実名を光春とする確実な史料はない。但し、信憑性の高い史料『[[信長公記]]』に「明智左馬助」とあり、『惟任謀叛記』にも「明智左馬助光遠」とあるので、実際に左馬助を称した可能性は高い。また、三宅氏は明智氏の一族であるとする書もある
 
1582年(天正10)に光秀が[[織田信長]]を討った[[本能寺の変]]では先鋒となって京都の[[本能寺]]を襲撃。その後[[安土城]]の守備につくが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との[[山崎の合戦]]で光秀が敗死すると[[坂本城]]に移り、光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害した。[[琵琶湖]]の湖上を馬で越えたという『左馬助の湖水渡り』伝説が残されている。