「中国貯蓄銀行」の版間の差分
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概要 |
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初代[[頭取]]は平井京次郎といったが、実質は[[米子銀行]]の[[貯金]]銀行部のような形であった。後に[[野坂茂三郎]]が[[頭取]]となっている。
支店は初め御来屋、境、淀江に置き、[[代理店]]を西伯、日野両郡内10ヵ所に置いた。明治32年([[1899年]])の預金高は2万7000円を超え、預け人は2176人で、その平均は12円57銭1厘に及んだ。そのうちの本店の預け人をみると、農514、商644、雑379、計1560人となっている。[[大正]]8年([[1919年]])に一時[[取り付け騒ぎ]]を起こしたが[[大正]]11年([[1922年]])1月に行名を'''中国興業銀行'''と改め[[普通銀行]]となったが[[昭和]]3年([[1928年]])2月に[[米子銀行]]に[[合併]]された。
== 参考文献 ==
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