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'''権門'''(けんもん)とは、[[古代]]末期から[[中世]]の[[日本]]において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団をさす言葉。類似した意味を持つ'''勢家'''(せいか/せいけ)と組み合わせて、'''権門勢家'''とも称しいった。
 
権門」と「勢家」はともに<!--『[[後漢書]]』などの-->[[中国]][[古典]]に記された故事に由来を持つ言葉する語あり、[[平安時代]]前期はじめ頃から使われるようになる。[[延喜]]2年[[3月13日]]付[[太政官符]](すなわち『[[延喜の荘園整理令]]』)には、「権門」「多勢之家(勢家)」など言葉すでに見らている。すなわち[[院宮王臣家|諸院諸宮王臣家]]あるいは五位以上の貴族の意味で用いられた。[[摂関政治期]]に入ると、地方の在地豪族が国司の介入を排除するために権門に土地を荘園とし寄進して[[不輸の権 (日本)|不輸権]]・[[不入の権 (日本)|不入権]]を獲得するようになっ([[荘園領主]])。特に[[藤原北家]]でも[[摂関]]の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」して没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的であった、一方で政治的権威の基盤であわか[[太政官]]-[[国衙]]の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、[[官物率法]]の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた
 
[[摂関政治]]の時代に入ると、地方の在地豪族が国司の介入を排除するため権門に土地を荘園として寄進して[[不輸の権 (日本)|不輸権]]・[[不入の権 (日本)|不入権]]を獲得するようになった([[荘園領主]])。特に[[藤原北家]]でも[[摂関]]の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、一方で政治的権威の基盤である[[太政官]]-[[国衙]]の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、[[官物率法]]の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。
だが、[[院政期]]に入ると藤原北家による権力集中に翳りが見え始め、[[治天の君|治天の君(院)]]や[[村上源氏]]、有力寺社、そして[[武家の棟梁]]と呼ばれる[[武士団]]の指導者が新たな権門として浮上するようになり、それらは互いに相手を牽制しつつも並列的に存在し続けた。やがて[[12世紀]]に入ると、摂関家の没落、院政の本格化、荘園公領制の導入などによって既存の政治体制は解体され、新たな政治体制である[[権門体制]]が登場したと考えられている。
 
しかし[[院政]]の時代に入ると藤原北家への権力の集中に翳りが見え始め、それと平行して[[治天の君]](天皇家の家督)、[[村上源氏]]、[[興福寺]]や[[延暦寺]]などの大寺社勢力、そして[[伊勢平氏|平家]]に代表される[[武士団]]を背景とした新しい[[武家]]勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。これらはしばらくの間互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて[[平安時代]]末期の[[治承・寿永の乱|源平合戦]]の動乱から[[鎌倉幕府]]の成立を経て、いわゆる「[[荘園公領制]]」の時代に入ると、「[[権門体制]]」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。
 
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