「北条貞時」の版間の差分

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| 時代 = [[鎌倉時代]]後期
| 生誕 = [[文永]]8年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1272年]][[1月14日]])
| 死没 = [[応長]]元年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]([[1311年]][[12月6日]])<br />享年41(40(満39歳没)
| 改名 = 幸寿丸、貞時、崇暁、崇演
| 別名 =
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[[正安]]3年([[1301年]])、鎌倉に[[彗星]]が飛来、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の[[北条師時]]に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。[[嘉元]]3年([[1305年]])、北条一族の内紛により[[北条宗方]]を誅殺している([[嘉元の乱]])。内外に問題を抱える貞時の政治は次第に精彩を欠き、政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、[[御内人]]の[[平政連]]から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されている。一方で、幼い息子[[北条高時|高時]]の足場固めの布石として、[[長崎高綱]]・[[安達時顕]]を登用し、彼ら二人を高時を補佐する両翼として備えようとした。
 
[[応長]]元年([[1311年]])10月26日、死去。[[享年]]41(40(満39歳没)。死に臨んで、貞時は長崎高綱と安達時顕の二人を枕元に呼び寄せ、高時を補佐し幕府を盛り立ててゆくよう命じたという。廟所は[[鎌倉市]]山ノ内の瑞鹿山[[円覚寺]]の塔頭仏日庵。木像も納められている。
 
== 人物・評価 ==