「坂下門外の変」の版間の差分

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Sashisu (会話 | 投稿記録)
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== 決行 ==
文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、安藤老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎、下野の医師・河野顕三<ref>下野国河内郡吉田村出身</ref>、越後の医師・川本杜太郎の6名が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった。(なお黒沢と高畑は[[東禅寺事件|第一次東禅寺事件]]の参加者)
 
最初に直訴を装って川本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕篭を銃撃。弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙をついて平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、安藤は背中に軽傷を負ったが城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げる事なくいずれも闘死した。警護側でも十数名の負傷者を出したが、死者はいなかった。
 
遅刻した川辺は長州藩邸に斬奸<ref>この政治活動は、最初から計画性をもって進められた運動ではなく、挙兵計画を模索し、それが挫折したあとに採用されたもの。</ref>趣意書を届けた後、切腹した。
 
== 影響 ==
安藤老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、安藤は4月に老中を罷免され、8月には隠居・蟄居を命じられ、所領の[[磐城平藩]]は2万石減封された。
 
== 脚注 ==
<references />
 
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