「聖パトリック大聖堂 (ダブリン)」の版間の差分

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1300年代半ばから500年間、建物の北側翼廊は聖ニコラス外部の教区教会として使われていた(言い換えると、聖ニコラス小教区の一部は本来の都市から外れていた)。火災の後、塔(マイノットの塔Minot's Tower)と西身廊は1362年から1370年の間に再建された。
 
非常に早い時期からこの教会には浸水問題が付きまとっており、いくつかの洪水、中でも18世紀後半には周囲に流れるポドル川支流によって引き起こされたものが特筆される。20世紀にはいっても[[地下水面]]が床下7.5フィート(2メートル強)以内にあり<ref>Bernard, 1924: p. 10, note 3</ref>、この大聖堂においては地下聖堂や地下室は確実に存在しなかったであろうことを物語っている<ref>Bernard, 1924: p. 10</ref>。
 
イングランドの宗教改革 (改革は1536年から1564年まで紆余曲折あったが、聖パトリックは1537年からその影響を受けていた) の後、聖パトリックは[[聖公会]]である[[アイルランド国教会]]の大聖堂となったが、[[ペール]]周辺の人々のほとんどはローマカトリックのままであった。徴発の間、大聖堂に収められているいくつかの像は[[トマス・クロムウェル]]が率いていた兵士によって傷つけられ、その後も十分な管理がなされなかった状況は1544年の身廊の倒壊につながった。