「ノート:文公 (晋)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yonoemon (会話 | 投稿記録)
追認ありがとうございます
編集の要約なし
189行目:
 
で、今回記事内容をいじった件ですが、本文中の「亡命生活を共にした人物」(*[[狐偃]](咎犯)/[[狐毛]]/[[趙衰]]/[[介子推]]/[[先軫]]/[[胥臣]]/[[魏犨]]/[[顛頡]])ですが、出典が無いもの、出典が史記に全面的に依拠しているもの、そして複数の出典に基づいて記事が書かれているもの、みんなバラバラです。これを見て当方としては非常に違和感を覚える所でしたので、とりあえず文公について、できる所だけ加筆した、という所です。取り合えず出典が無いものについては、今回出典を求めるタグを貼付けておきました。で、記事内容を比べてみるに、[[介子推]]が、複数の出典が列挙され、一番公平でないかと思うのですが、いかがでしょうか? できれば他の記事も、史記の完全な引き写しでなく、こういう風に発展していけばベストだと思うですが。 ただ、介子推の記事については、史料と創作物が同列に扱われています。私的には特に噛み付くほどでも無いとは思うのですが、らりた氏にとってはどうでしょう? 氏の主観では、こういうものは許せない内容になると思うのですが。ただ、当方としては問題提起だけさせて頂き、今回は失礼させて頂きますので、ご了承下さい。--[[利用者:PATMAN|PATMAN]] 2010年2月28日 (日) 13:10 (UTC)
 
 
私の最初の削除行為がこれほどに問題を大きくした第一の原因であることは疑いなく、その点を深く謝罪いたします。今後は同様の行為(理由の提示の無い削除)は決して行わないことを誓います。今後、同じことを行った場合は無期限ブロックも甘んじて受け入れます。
 
ただし。PATMAN氏の犯されている極めて大きな誤謬を見て、「このような認識を元に記事を編集されてはたまったものではない。」という強い危機感があったからこそここまで頑なになったわけであり、その点をPATMAN氏には深く認識していただきたいと思います。具体的には「果たして史記は、『陳舜臣氏の著作と比べて正確性が上回る』ものなのでしょうか? 答えを言うと『否』です。」とか「史記に史料批判が行われているかどうか」とか。このような認識を元に歴史記事の編集を行うのは絶対に止めていただきたいと切に願うものです。
 
それと私は別に「小説家の著作は出典として認められない」と言っているわけではなく、「小説家の著作は'''歴史学的事実考証の'''出典として認められない」といっているのです。PATMAN氏は再三「単なる付記」と述べていますが、一方では「本記事は史記に全面的に依拠した記述になっていますので、その状況をいくばくか改善するにあたって」と述べて、明らかに事実関係を争う目的で陳氏の著作を使っています。こういうことは止めて欲しいということです。
 
でですが。上記で挙げた論文をいくつか入手してきたので後日になりますが、改稿を行いたいと思います。ある程度完成したら文案を上げます。[[利用者:らりた|らりた]] 2010年3月2日 (火) 12:06 (UTC)
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