「ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)」の版間の差分

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| 人名 = ルートヴィヒ2世
| 各国語表記 = Ludwig II
| 君主号 = [[バイエルン|バイエルン王]]
| 画像 = Ludwig II in Uniform; Bavaria Rex.jpg
| 画像サイズ = 200px
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| 母親 = [[マリー・フォン・プロイセン (1825-1889)|マリー・フォン・プロイセン]]
}}
'''ルートヴィヒ2世''' ('''Ludwig II.''' [[1845年]][[8月25日]] - [[1886年]][[6月13日]])は第4代[[バイエルン国|バイエルン]]国王(在位:[[1864年]] - [[1886年]])。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれてきた。
 
== 生涯 ==
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結局、王は家臣の反対を受け入れ、[[1865年]]12月、ワーグナーを一時追放した。それから王は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく、中世風の[[ノイシュヴァンシュタイン城]]など豪華な建築物に力を入れるようになった。また彼は[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]を敬愛しており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を模した[[ヘレンキムゼー城]]、また[[トリアノン宮殿]]を模した[[リンダーホーフ城]]を建設した。
 
[[1866年]]、[[普墺戦争]]が勃発し、[[バイエルン王国|バイエルン]]は[[オーストリア]]側で参戦することになった。戦争を嫌うルートヴィヒは退位さえ考えたが、結局、議会の要求どおり動員令に署名した。戦争には敗れ、バイエルンはプロイセンに対して多額の賠償金を支払うことになる。
 
ルートヴィヒ2世は近侍させた美青年たちを愛し、女性を嫌忌していたが、自分と同じ[[ヴィッテルスバッハ家]]の一員で[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]だけには、女性でありながら唯一心を許していた。彼女もまたルートヴィヒ2世と同じく堅苦しい宮廷を嫌い、逃避行を繰り返していた。王の将来を心配していたエリーザベト皇后は、自分の妹である[[ゾフィー・イン・バイエルン|ゾフィー]]を王妃として推薦したが、ルートヴィヒは婚期を延ばした挙句婚約を解消した。この彼の態度にエリーザベトは怒りを覚え、彼と絶縁したという。ちなみにルートヴィヒ2世は歯が悪かったが、尊敬するルイ14世も同様に歯が悪かったので、むしろそれを喜んでいたと言われている。
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* [http://www.schlosslinderhof.de/ リンダーホーフ城公式サイト]
 
{{先代次代|[[バイエルン王国|バイエルン国王]]|[[1864年]] - [[1886年]]|[[マクシミリアン2世 (バイエルン王)|マクシミリアン2世]]|[[オットー1世 (バイエルン王)|オットー1世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:るとういひ2せい}}