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'''王 弼'''(おう ひつ、[[226年]] - [[249年]])は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[学者]]・[[政治家]]。[[字]]は'''輔嗣'''。[[兗州]]山陽[[郡]]の人。祖父は
王弼は[[何晏]]らと
==経歴==
『博物記』によると、祖父の王凱はその名士としての血統と容姿の美しさを理由に劉表に気に入られ、娘婿となった人物であり、父の王業は劉表の外孫で、王粲の子が刑死しその家系が断絶した後、その一万巻の蔵書を受け継いだ人物である。
王弼は幼少の頃から賢く聡明で、十数歳で『[[老子]]』を好み、明晰かつ雄弁に語った。若くして
[[正始 (魏)|正始]]年間、黄門侍郎の官が続けざまに欠員となったので、何晏は[[賈充]]・[[裴秀]]・朱整を起用したが、王弼の起用も審議した。しかし、
王弼は浅薄ではあったが、穏やかな性格で
鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。王弼は何晏のこの論を批判し、「聖人は人より精神の働きに優れ、人と同じ点は五つの情(喜怒哀楽と欲または怨)にある。精神の働きがすぐれているからこそ、宇宙の和楽の気を体得して、無に通ずることが出来る。五つの情が同じだからこそ、哀楽の情によって外物に対応してしまうのである。だからこそ、聖人の情は外物に引きずられない点をとりあげて、外物に対応しないのだと考えるとすれば、それは間違いである。」と主張した。
王弼は『老子』『[[易]]([[周易]])』の注釈を書き、『道略論』を著述した。『老子』『易』の注釈は現存し、高く評価されている。『易』の注釈は『[[十三経#十三経注疏|十三経注疏]]』に採用されている。
[[249年]]、[[司馬懿]]がクーデターを起こし、曹爽・何晏を処刑すると、王弼は免職となった。この年の秋、[[癩病]]を患い死去した。享年24歳。子は無く家は途絶えた。彼の死は、[[司馬師]]を始め多くの知識人に惜しまれた。
==関連項目==
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