「大江磐代」の版間の差分

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生涯
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== 生涯 ==
[[延享]]元年([[1744年]])に[[伯耆国]]倉吉([[鳥取県]][[倉吉市]])で、[[鳥取藩]]の家老[[荒尾氏]]の家臣だった父・[[岩室宗賢|岩室常右衛門]]と、鉄問屋の娘であった母・おりんとの間に生まれる。幼名はおつる。
 
9歳のときに浪人して町医者となっていた父・宗賢とともに[[京都|京]]に上がる。養女となり[[櫛笥家]]に仕えるなどの経緯をへて、十代のころには[[橘氏|橘姓]]を名乗り「大江留子」として[[籌宮成子内親王]]の[[侍女]]となった。
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その後、成子内親王が[[閑院宮典仁親王]]に嫁ぐと磐代も[[女房]]として親王の寵愛を受け、三人の皇子をもうけた。その長男で閑院宮典仁親王第六王子・師仁親王は、皇子のいなかった[[後桃園天皇]]の第一皇女・[[欣子内親王]]を[[中宮]]に迎え即位した。天皇の生母としては、当時では異例の出自の低さであった。
 
典仁親王没後は出家して蓮上院となり、次男で[[聖護院]]門跡宮家を継いでいた閑院宮典仁親王第七王子・盈仁入道親王のもとで暮らした。父・[[岩室宗賢]]もその縁で家臣に取り立てられ[[法橋]]の位を与えられていた。
 
[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])に69歳で没し、盧山寺に葬られた。[[1878年]]に[[従四位]]、[[1902年]]に[[正一位]]を贈られた。