削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
6行目:
[[耳川の戦い]]には、隠居の身の父[[蒲池鑑盛|鑑盛]](入道宗雪)や弟の[[蒲池統安|統安]]らと共に3千の兵を連れて大友方の兵力として出陣するが、[[大友氏]]への忠義一筋の鑑盛と異なり鎮漣は、大友氏からの独立の意志を持ち、仮病を口実に直属の兵2千を伴って柳川へ戻る。父鑑盛と弟の統安は、耳川の戦いで奮戦し討死する。
 
鎮漣の妻の[[玉鶴姫]]の父は[[龍造寺隆信]]であり、隆信は肥前から追放された時、[[蒲池氏]]に保護されたことから蒲池鎮漣に娘を嫁がせていた(『九州治乱記』)。こうした背景から、大友氏を離れた鎮漣は[[龍造寺氏]]に接近することとなった
 
== 龍造寺隆信との確執 ==
鎮漣は義父であった[[龍造寺隆信]]に幕下の礼をとり、その[[筑後]]進攻に全面的に協力するが、やがて柳川の領有化を志向す隆信と対立するようになった。また隆信の冷酷非情な行為に疑問を抱き、ついには離反の姿勢を示す。これに怒った隆信は[[1581年]]に2万の兵で[[柳川城]]を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城を攻めきることが出来ず、鎮漣は伯父の[[田尻鑑種]]の仲介という形で隆信と和睦を結ぶ。
 
以前より鎮漣は[[島津氏]]への接近の姿勢示し図っていたが、隆信にとって[[柳川市|柳川]]は隆信が九州中央へ進出するには絶対にあたって必要不可欠な地であった。柳川が島津の影響下に入ことを恐れ隆信は、再度の柳川侵攻を決定。しかし、まともに攻めたのでは歯が立たないため、隆信家臣の[[鍋島直茂]]や、隆信に与していた田尻鑑種などとともに鎮漣の謀殺を画策。柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に鎮漣を誘った。
 
== 鎮漣の死と柳川の戦い ==
当初、鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信の使者は執拗かつ丁重に鎮漣の母や重臣を欺きながら説得し、ついに断りきれなくなった鎮漣は腹を決め、家老の[[蒲池鎮久]]をはじめ選りすぐりの屈強な家臣200名を連れて柳川を出発する。留守役で鎮漣の従兄弟でもあった家老の[[大木統光]]が鎮漣の肥前行き中止を進言する、鎮漣の決意を変えるには至らなかった。
 
[[筑後川]]を渡って肥前に入った鎮漣は[[佐賀城]]で隆信の嫡男・[[龍造寺政家|政家]]の歓待を受けるが、その翌日、与賀神社の近くで龍造寺の部隊に襲撃される。蒲池氏200の精兵は奮闘するも多勢に無勢で鎮漣は自決、鎮久をはじめ鎮漣の郎党は全員討死した。
 
鎮漣の死を見届けた隆信は、時を置かず柳川の鎮漣一族の抹殺を命じ、鍋島直茂の督戦の下、田尻鑑種が柳川に兵を進め凄惨な[[柳川の戦い]]が行われた。蒲池一族の抹殺を命じた隆信だったが、その冷酷なやり方の冷酷さは龍造寺四天王の一人[[百武賢兼]]など隆信の腹心からも疑問を持たれた。賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し、ついに最後まで出陣しなかった。鎮漣一族の冷酷な殺戮は、隆信に対する筑後の有力国人の反発、離反を招き、その後の龍造寺氏衰退の原因の一つとなった。
 
== 玉鶴姫 ==