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'''広沢 瓢右衛門'''(ひろさわ ひょうえもん、[[1897年]][[10月17日]] - [[1990年]][[2月17日]])は、[[浪曲]]師。[[大阪府]][[浪花区]]生まれ。本名・小島美士五郎。実の兄が[[広沢当昇]]。
 
父は床亭という名の理髪店を経営。尋常小学校を中退し堺東湊の床市という理髪店に修行。その頃兄が浪曲しになる。父も趣味で小屋を借りては浪曲師を集めては浪曲の会を開いていた。子供の頃から芸事が好きで楽屋に出入りするようになり理髪店の修行の傍ら浪曲の会に出るようになる。13歳の時に先輩の浪曲師の勧めで理髪店を飛び出し浪曲に入る。[[1911年]]に広沢当円(または兄の広沢当昇の門下)の門下で広沢当瓢、[[1912年]]に広沢瓢右衛門と改名。浪曲師になってからは主に地方が多く、全国の一座を転々。一時引退し半引退状態となり[[芙蓉軒麗花]]のマネージャー、雑貨屋、映画館、ストリップ劇場の経営、等をやり生計を立てていた戦後、[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]、[[小沢昭一]]、[[永六輔]]等の勧めで復帰、80歳近くなって[[朝日放送]]の[[和朗亭]]に米朝の推薦で出演し人気を博す。[[テレビ]]や[[ラジオ]]にも積極的に出演し、朝日放送で「悪声伝」題のドキュメンタリーも放送され本も出版された。
 
東京では[[木村松太郎]]とよく二人会を開いていた。