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'''駢文'''(べんぶん)とは、中国の[[文語]]文における[[文体]]の一つ。'''駢体'''(べん」まい)・'''は「駢体文'''(べんたいぶん)ともいう。[[散文]]・[[韻文]]に対立する文体で、[[魏 (三国)|魏]]・[[晋 (王朝)|晋]]のころに形成され、[[六朝時代]]から[[唐]]にかけて盛行した。「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、[[対句]]を基本とする文体であることを意味している。また'''駢儷文'''(べんれいぶん)・'''駢儷体'''(べんれいたい)ということもあるが、「儷」(または「麗」)もまた「ならぶ」という意味である。また句の字数が、4字または6字と決められているので'''四六文'''(しろくぶん)ともいう。「四六」の語は[[晩唐]]から使われはじめ、宋から明にかけて使われた。「駢文」の名は清代において名付けられた。合わせて'''四六駢儷文'''・'''四六駢儷体'''とも言われる。また'''駢四儷六'''という語もあった。
 
== 特徴 ==
駢文の特徴は、形態上、4字句と6字句を対句によってリズムよく並べられ、また音声上は[[平仄]]など[[韻律 (韻文)|韻律]]の制約を受け、内容から言えば、典故と藻飾を多用することである。
「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、[[対句]]を基本とする文体であることを意味している。「駢儷文」(べんれいぶん)あるいは「駢儷体」ということもあるが、「儷」(または「麗」)もまた「ならぶ」という意味である。また1句の字数が、4字句または6字句を基調とするため、「四六文」(しろくぶん)とも呼ばれた。「四六」の語は晩唐から使われはじめ、[[宋 (王朝)|宋]]から[[明]]にかけて使われた。「駢文」の名は用いられるようになったのは[[清]]代においてである。これらを合わせて「四六駢儷文」または「四六駢儷体」と呼ぶこともある。また「駢四儷六」ともいう。さらに駢文の中には、[[平仄]]など[[韻律 (韻文)|韻律]]面を整えたものもある。
 
えばとして、[[王勃]]「滕王閣序」の一文以下の部分において次のような[[対句や平仄]]や対句構造をもっている。
:馮唐易老 (平平仄仄) 名詞(人名)+副詞+動詞
:李広難封 (仄仄平平) 名詞(人名)+副詞+動詞
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:豈乏明時 (仄仄平平) 否定副詞+形容詞(数量)+名詞
 
また内容的には典故や装飾的な修辞を多用する点に特徴がある。前述の「滕王閣序」では次のような典故が用いられている。
:馮唐 老い易く([[前漢]]の[[馮唐]]が有能でありながら、老齢でも郎中署長という低い役職についていた故事から)
 
:馮唐、老いやすく李広 封じ難し([[李広]]は幾たび[[馮唐]]が有能であって戦功にかかわらず郎中署長という低い役職生涯諸侯ついた時、すでに年老いてい封じられなかったという故事から)
:李広、封じがたし(武将[[李広]]が戦功を立てても生涯、諸侯に封じられることはなかったという故事から)
:賈誼を長沙に屈するは
:聖主無きにあらず([[賈誼]]が時の政治をしばしば批判する意見を多く述べしたことで、廷臣たちに疎まれて[[長沙]]に左遷された故事から)
:梁鴻を海曲に竄(かく)すは
:に明時乏しからんや([[梁鴻]]が『五噫詩』を書いて時の宮廷を諷刺して「五噫詩」を書いためことから追われる身となり、姓名を変えて斉魯の間に隠れんだという故事から)
 
[[Category{{DEFAULTSORT:中国文学|へんふん]]}}
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[[Category:隋唐|へんふん魏晋南北朝]]
[[Category:隋唐]]
 
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