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'''小笠原 唯八'''(おがさわら ただはち、[[文政]]12年([[1829年]]) - [[慶応]]4年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1868年]][[10月10日]]))は、[[幕末]]の[[土佐藩]]士。別名、牧野郡馬。
 
[[高知城]]下(現[[高知県]][[高知市]]江ノ口地区)に生まれた。[[山内容堂]]の側近となり、容堂の信頼を得て藩の大監察兼軍備御用役に就く。[[土佐勤皇党]]の[[間崎哲馬]]らを取り締まったり、[[元治]]元年([[1864年]])7月に[[清岡道之助]]らが起こした「野根山屯集事件」を鎮圧。[[後藤象二郎]]と共に薩摩藩との関係改善を進めている時から[[勤皇]]的思想を持つようになり、後に[[板垣退助]]や[[中岡慎太郎]]らと共に[[倒幕]]運動を始める。しかし、その事がきっかけで職を失う。
 
しかし、[[戊辰戦争]]が始まると藩の藩兵別撰隊小隊司令官に就任し、藩兵を率い佐幕的立場にあった隣藩の[[伊予松山藩]]に進軍。これを降伏させた。その後明治新政府の大総督御用掛に就任。さらに政府軍諸道軍監となり[[上野戦争]]や東北諸藩との戦いにおいて活躍するが、1868年(慶応4年)[[会津戦争]]で戦死する。その近くでは弟の茂連も戦死した。[[会津城]]攻めにおいて部下の兵隊達の士気向上を狙い[[よさこい節]]を歌ったと伝えられている。享年40。