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ツチとフツの対立の起こり を起草。
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== 1994年4月6日までの歴史的背景 ==
=== ツチとフツの対立の起こり ===
=== 概要 ===
{{main|ツチ族とフツ族の起源}}
{{see|ルワンダの歴史}}
現在かつて、ヨーロッパ人間では、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々はフツ、ツチ、トゥワの3民族から主当た構成されと考えるのが主流であった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に狩猟民族の[[トゥワ]]ことであったことが知られている<ref>Jackson Nyamuya Maogoto『The International Criminal Tribunal for Rwanda: A Distorting Mirror; Casting doubt on its actor-oriented approach in addressing the Rwandan genocide』, '' African Journal on Conflict Resolution'', 2003. [http://se1.isn.ch/serviceengine/Files/ISN/98087/ichaptersection_singledocument/CEC67BB4-3CAD-419F-85D3-D513318F8E6E/en/Chapter4.pdf]</ref>。従来学説後、農耕民であるフツが10世紀以前ルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、[[ルワンダ王国]]下で国を治めていたと考えらていた<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』pp.84-87、明石書店、2009年2月。</ref>。
農耕民であるフツが10世紀ごろにルワンダ周辺地域に住み着き、その後13世紀から15世紀の間にエチオピアから牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、[[ルワンダ王国]]下で国を治めていたと考えられていた。[[ハム仮説]]。 [http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/17773/1/070cnerDP_044.pdf]
 
この学説の背景となったものの1つに、19世紀後半のヨーロッパにおける主流の人種思想、[[ハム仮説]]([[:en:Hamitic]])があった。ハム仮説とは、旧約聖書の創世記第9章において、ノアの裸体をハムが覗き見た罪により、ハムの息子のカナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」<ref>[http://bible.e-lesson1.com/2genesis9.htm 創世記 第9章]</ref>とモーゼの呪いを受け、そのカナンの末裔で黒人の優越種族であるハム系民族が、未開の地であるアフリカに文明をもたらしたとする理論仮説であった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.85。</ref>。
 
ルワンダおいて、[[ネグロイド]]に区分される[[バンドゥー系民族]]に特徴的な、中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ農耕民族のフツを、[[コーカソイド]]人種に区分されるハム系諸民族に特徴的な、痩せ型で鼻の高く長身な牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものであった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.87。</ref>。そのため、19世紀後半にこの地を訪れた[[ジョン・ハニング・スピーク]]は、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を大湖地域に適用し、説明した。しかし近年では、実際にはフツとツチは宗教、言語、文化に差異が無く、また互いの民族間で婚姻がなされていたこと、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものであったこと、さらにはツチがフツよりも後から移住してきたという言語学的・考古学的証拠が無いことから、この民族はもともと同一のものであったのが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp38-39</ref><ref>武内 進一 (編集) 『現代アフリカの紛争 —歴史と主体— 』、日本貿易振興会アジア経済研究所、2000年1月、pp.247-292。</ref>。
1957年、後にルワンダ大統領となる[[グレゴワール・カイバンダ]]やジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治政治の独占的状態を批判した[[バフツ宣言]]と呼ばれるマニュフェストを発表、2年後の1959年には、これらのメンバーが中心となって[[パルメフツ]]が結成された。さらに、1961年にはルワンダ国王であった[[キゲリ5世]]の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にカイバンダが共和国大統領となった。このフツ系の政権はツチを迫害し、多くのツチが周辺国への難民化を余儀なくされた。1973年、無血クーデターが発生してハビャリマナが政権を握ると、ツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、問題は依然として残ったままであった。1980年代後半には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していたことが知られている<ref name>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p48</ref>。
 
19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領[[ルアンダ・ウルンディ]]となると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行い、周辺地域の国々を平定して中央集権化していった<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.108-111。</ref>。その後の1919年、[[第一次世界大戦]]でドイツが敗れたことで、アフリカ各地にあったドイツ領は新たな宗主国へ割り振られ、[[ルアンダ・ウルンディ]]は[[ベルギー]]領となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.118。</ref>、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.117-119。</ref>、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行った<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.153-156。</ref>。また、教育面でもツチへの優遇を行い、公立学校へが許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、pp.126-127。</ref>。さらに1930年代には人種カード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てたものとして固定し<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p40</ref>、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる二つの民族を確立したのであった。
 
第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われるようになった。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』、明石書店、2009年2月、p.126。</ref>もまた、公式にフツの支持を表明した<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp40-41</ref>。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となる[[グレゴワール・カイバンダ]]やジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治政治の独占的状態を批判した[[バフツ宣言]]と呼ばれるマニュフェストを1957年に発表した。
 
そんな中、1958年の11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であった[[ドミニク・ンボニュムトゥワ]]([[:en:Dominique Mbonyumutwa]])がツチの若者に襲撃され、殺害されたとの誤報が流れた。$$$$
 
1957年、後にルワンダ大統領となる[[グレゴワール・カイバンダ]]やジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治政治の独占的状態を批判した[[バフツ宣言]]と呼ばれるマニュフェストを発表、2年後の1959年には、これらのメンバーが中心となって[[パルメフツ]]が結成された。さらに、1961年にはルワンダ国王であった[[キゲリ5世]]の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にカイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権はツチを迫害し、多くのツチが周辺国への難民化を余儀なくされた。1973年、無血クーデターが発生してハビャリマナが政権を握ると、ツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、問題は依然として残ったままであった。1980年代後半には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していたことが知られている<ref name>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p48</ref>。
 
隣国である[[ブルンジ]]では、1962年の独立以降、[[ブルンジ虐殺]]と呼ばれる2つの虐殺事件が発生している。1件は、1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件であり<ref>Staff. [http://www.preventgenocide.org/edu/pastgenocides/burundi/resources/ pastgenocides, Burundi resources] on the website of Prevent Genocide International lists the following resources:
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ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が100日近く続いたジェノサイドで殺害された。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。また、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p57。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在[[HIV]]に感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っている。
 
また、ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。[[アフリカン・ライツ]]が虐殺の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、
また、被害者の多くがマチェテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活において[[PTSD]]を容易に惹起する可能性を指摘する声もある<ref>喜多悦子『紛争時、紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割』、独立行政法人国際協力機構、2005年、p15。[http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kyakuin/pdf/200512_hea.pdf]</ref>。
 
<blockquote>ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―― といった行為が多発した<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 p59。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。</blockquote>
 
といっ報告が詳細に収録されている<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp81-82。[http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/bulletin/pdf/soc-19-3.pdf]</ref>。このほか、被害者の多くがマチェテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活において[[PTSD]]を容易に惹起する可能性を指摘する声もある<ref>喜多悦子『紛争時、紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割』、独立行政法人国際協力機構、2005年、p15。[http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kyakuin/pdf/200512_hea.pdf]</ref>。
 
なお、ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、[[ピエラントニオ・コスタ]]([[:en:Pierantonio Costa]])、[[アントニア・ロカテッリ]]([[:en:Antonia Locatelli]])、[[ジャクリーヌ・ムカンソネラ]]([[:en:Jacqueline Mukansonera]])、[[ポール・ルセサバギナ]]、[[カール・ウィルケンス]]([[:en:Carl Wilkens]])、アンドレ・シボマナ(André Sibomana)らによる活動がよく知られている。